〈新・旧〉大和川水系の文化資源

浅野 詠子(ジャーナリスト)

2013年11月

 はるか古代にさかのぼれば、大陸の文化を運んだ川の道。くだって戦国時代になると、ポルトガル人宣教師が大和川の水上交通を利用して、飯盛山城にやって来た。大和川はむかしから国際性に富んだ河川だった。元禄17(1704)年の付け替え大工事をきっかけに、旧河川の跡地に新田がつくられ、河内木綿の生産が隆盛を誇る時代がやってきます。やがて川跡に鉄道や住宅などが続々と建って、大阪発展のひとつの基盤をなしたといわれています。

 ひところの大和川は、水質が全国でワーストワンであるなどと、よく報じられていました。すこしは改善に向かっているらしい。そもそも流域には雨が少なく、山地率は低いし、しかも上流の方へいけば、いくつもの支流が住宅街を縫うようにして流れている。信州や北海道などの河川と比らべて、汚いのどうのとこだわりすぎても、あまり意味のないことである。

 奈良盆地の上流では名前が変わり、佐保川、飛鳥川などはご存じのように万葉集に登場します。難波の港と飛鳥の都をむすんだ由緒の深い水運も、たび重なる氾濫で甚大な被害を何度ももたらし、ついに元禄の庄屋、中甚兵衛(1639−1730年)が嘆願運動に立ち上がります。以来、50年にわたり、付け替え工事の重要性を訴え、とうとう幕府は着工。わずか8カ月のうちに大工事をおえた。特異な歴史絵巻です。これほど〈物語る〉河川はそうないでしょう。

 奈良県桜井市の源流から大阪府堺市の河口まで、全長は68キロというから決して大きな川ではない。ところが何かにつけて元禄17年以前の旧河川の地図がよく話題になり、新・旧の河道の両方を併せ描いた図なども、ときどきお目にかかる。イメージの膨らむ河川だと思います。

 いま、私たちのいる場所が、大和川付け替え運動の先駆者、中甚兵衛の生家、川中邸(東大阪市今米、国の登録有形文化財)であります。本日付の朝日新聞朝刊に、このフォーラムが大きく紹介され、町工場の街の茅葺きの建物、屋敷林の保全に関心を寄せる方々が大阪一円から訪れています。

 この川中邸に私が訪れるのは、およそ5カ月ぶりのこと。大和川の付け替えにより、川跡に開発された新田ゆかりのスポットを散策する集いがありました。同じ東大阪市内にある鴻池新田会所(国史跡、重要文化財)、お隣の大東市にある平野屋新田会所跡、そして、この川中邸、これら3箇所をめぐり、「トライアングル・ツアー」などと遊び心で呼んで、ある研究者が企画しました。

 開発された新田は1050ヘクタールにおよぶといいます。そこで私は、独特な魅力をもっているこれら一帯を「大和川付け替え大工事と新田開発の遺産群」と名づけてみた。京都や奈良の世界遺産がいくつかの資産で構成されていることにヒントを得て、面白半分の命名です。

 でも、本当はまじめ。日本の歴史上、まれな公共工事の関連遺産が点在し、どこにもない、普遍的な価値を見つけることができそうだ。 お隣の八尾市にも安中新田会所が残り、市の文化財として保存されている。会所というのは、新田を管理、運営する施設だったそうです。新田は、旧大和川の川跡が開発されただけなく、付け替え後の新しい大和川が土砂を運び、河口に堆積し、そうした一帯を開発してできた田畑もあった。大阪市住之江区の加賀屋新田会所の風情がそれで、これも市の文化財です。

 一帯の遺産の魅力は、新田の跡とか、会所などの古い建物にかぎるものではありません。たとえば、付け替えにより、新しい大和川が流れてきた土地の洪水対策として、幕府は雨水を集める溝を施工しているが、落堀川と呼ばれており、この小河川はいまも残る。

 あるいは、旧の大和川が北に向かって流れていた柏原市上市には、レンガづくりの「築留二番樋」(国の登録有形文化財)もたたずんでいる。これは明治の末から大正にかけて、大和川から農業用水を引くために築造したそうです。

 さらに、川跡で発展した江戸時代の綿花産業をしのび、ワタの栽培に取り組んでいるグループも東大阪にある。先月、大東市で関西山城サミットという行事があったのですが、会場で紹介されていました。

 「年間たった25キロの収穫ですが…」 担い手の一人は、こう謙遜し、報告していた。ところが、農村で聞く25キロとはちがって感じられるでしょう。大阪の市街地でワタが25キロ獲れたという話なので、何だか、嵩が大きく感じられる。

 収穫したワタは、藍の本場、徳島で染めてもらい、藍染めグッズをこしらえているそうです。河内産のコットンがふうわり、ふうわり、海を越えて阿波へ渡るという感じがしますね。旧河川、新田跡のかいわいにおいて、現代によみがえる景観作物。ビルのはざまでふんばってほしいです。

 まだまだ、面白いものがあります。河内の文化遺産は、ときとして、町工場や住宅街のはざまで、ぶっきらぼうな姿をしていることがある。それだけに、語り部の活躍する土壌は深いといえるでしょう。

 あれは2009年ごろのことでした。鴻池新田会所において、「摂津・河内の新田会所」という展示があり、主要な10会所(跡)が紹介されました。このうちの半数近くが現存しないそうです。近鉄長瀬駅かいわいの「吉松」、同じく東大阪の「三井」(菱屋新田会所)、大東市の「諸福」などの会所跡で、写真すら残っていないものもあった。壊された時代が早かったのでしょうか。

 惜しまれながら、平野屋新田会所跡の建物が壊されたのは2008年のことでした。そのときのもようが本年、刊行された『大阪春秋』(150号)にすこし出ています。

 大型の重機が入り、瓦がガラガラと音を立てて崩れ落ちるさまを住民や市役所の職員、議員らが見守ったという。表長屋門などに代表される江戸期の建物。人々に愛され、「国の史跡にしてほしい」と地元の人々は懇願し、保存運動をしたそうだが、地権者の事情など色々な障壁があって、叶わなかったそうだ。

 つらい解体現場に立ち会い、人々が目に焼きつけたのはなぜだろう。それは、破壊が終わりではなく、地域の再生をちかった日だったにちがいありません。

 すると、たとえ近世、明治、昭和などの建物でも、惜しまれながら失われたものは、その後も丁寧にかかわり、しっかり伝えていけば、それもひとつの地域資源になるのではないか。

 では、かつて存在した「ない」ものが描かれている街歩きのマップを3つ紹介しましょう。 ひとつは、大阪市東成区のかいわいですが、もはや現存しない今里新地の演舞場、二葉館なる演芸場などの往時の写真を刷り込んでいる。それだけでなく、むかし活躍した落語家や漫才師の旧居、作家ゆかりの地なども追跡し、これでもか…と地図に落とし混んでいます。暗越奈良街道クラブのメンバーが作成しました。

 ふたつ目は、本日のテーマとも重なります。見てください、旧大和川が青色で描かれていますね。マップを手に、むかし川だった道を歩くのは面白い。そして、ここにも現存しない建物の写真が添えられています。東洋のハリウッドといわれ、昭和のはじめに焼失した帝国キネマの堂々たる威容です。その名も「帝キネが愛した東大阪マップ」(発行、帝キネ映画東大阪上映実行委員会)。近鉄河内小坂、河内永和など、周辺の散策スポットも紹介しています。 

 さて三つ目は、上流の大和川水系です。奈良盆地において、もはや存在しない歴史的な水辺といえば何だと思いますか? 第一番目に挙げたいのが郡山城の外堀です。一周ぐるっと旧外堀のかいわい7キロを散策できますが、ところどころに、外堀の記憶を宿す水辺が残る。ため池や金魚の養魚池に姿を変えているスポットがありますよ。「みちしるべの会」がこしらえたイラストマップで、隠れた史跡なども丹念に書き込んでいます。

 外堀との関連で、お手元に配布した大和川水系の資料で、秋篠川をご覧ください。直角に曲がり、佐保川と合流していますね。これは文禄年間、郡山を一時支配した増田長盛が行った付け替え工事により、こんな姿をしているんです。元の秋篠川は、南下して佐保川と合流していたが、このように流れを変えることにより、川跡を外堀に使用したというわけです。

 では、次なる街歩きマップは…。ぜひとも「大和川の付け替え大工事と新田開発の遺産群」をテーマに、つくってみようではありませんか。  さて、先に触れました、川中邸や平野屋新田会所跡などの散策をしているときのことです。鴻池新田会所の保全に尽くしたという一人の公務員の話を、参加者の一人から聞きました。天竹薫信(あまたけ・しげのぶ、故人)という人です。

 ご当人の筆による回想録が残っていると聞き、後に入手しました。そこには、昭和40年代のおわりから50年代にかけての東大阪市の文化財行政のことが、率直に書かれている。

 天竹さんという人は、市の課長になってから2年間、佛教大学の通信教育で歴史学を修め、学芸員の資格を取った人です。それが人事課の耳に入り、文化財課長になるのですが、鴻池新田の国史跡の申請は、着任する2カ月ほど前に前任者が行っていました。

 就任してほどなく、「すぐ上京されたし」という連絡が文化庁から入り、天竹さんは自分の乗用車を運転し、一路、東京をめざします。当時の文化財課は出張の経費が出ませんでした。さすが工業都市です(会場から楽しそうな笑いが起こる)。暮も押し詰まった師走の寒い日で、箱根の山を越えようとするころ、大雪となり、フロントガラスをたたきつける雪の大きさまで天竹さんは書き残していたと思う。

 雪道のノロノロ運転で、東京に着いたときは夜の10時。交番に駆け込んで、適当な安宿を紹介してもらい、翌朝、定刻に文化庁に着くことができました。ところが、まわりを見て、天竹さんはびっくりします。なぜって、年末は予算折衝の陳情シーズン。よその自治体は、みな首長が来ています。百歩ゆずっても教育長。どうしよう…。東大阪だけが一課長の私ひとり。本当に国の史跡にしたいのですか?と,熱意を疑われたらどうしよう…。天竹さんは青ざめる。

 そんな話が書かれた回想録なのです。 国の史跡に向け、天竹さんはまさに裏方。江戸期に新田を開発した豪商の末裔、鴻池家との度重なる折衝をつづけていきます。地元出身の政治家、塩川正十郎さんも力づよく後押ししてくれた。何より、真の価値が文化庁に認められ、鴻池新田会所は昭和51年、国の史跡になりました。近世のこの種の史跡は、とても価値があるそうです。工業都市の快挙でしょう。

 全国のまちを見渡せば、天竹さんのような、やる気公務員とか、まちづくりの担い手、企業人のボランティアなどはゴマンといますよね。しかし、こうした一吏員の回想録を市民の有志らが大事に残し、街歩きの散策などで、ひょいと話題になるところが面白い。

 よい街には、たくさんの黒子がいるだろう。 天竹さんのことを教えてくれたのは、盾津飛行場跡を掘り起こしている太田理さん。第二次世界大戦の旧陸軍飛行場跡だといい、荒本の市役所の北、鴻池新田会所の南東あたりに存在したそうです。

 晩学の人、天竹回想録には、名わき役が登場します。通信で歴史を勉強しようと氏が決意したのは、体育振興課の課長のときのこと。市民のスポーツ振興をつかさどる部署です。部下の課長補佐は、なんと、アジア大会の陸上の日本代表選手、奥野宗尾さんでした。

 「仕事は多少おろそかになるかもしれないが、助けてくれないか」 こう天竹さんは、奥野補佐に思いを打ち明けます。 「心の広い奥野さんに助けられたんだ」とも綴っている。いまなら納税者の目などを気にして、なかなか書けるものではありません。

 それと、鴻池新田会所の保全に向け、文化庁を動かしたといわれる名論文を書いた、藤井直正氏も登場します。市の博物館長でした。「よい部下をもった」と天竹さんが喜んだのも束の間。藤井氏は市役所を去り、大学の先生になります。文化財課の頭脳を失い、ショックだったと書いている。

 工業のまち、東大阪。この土地で、「百年先を見通すことが文化財の仕事だ」と、だれに聞いたのでもなく、頭を打ちながら体得していった人です。そして人身を一新するのは役所の鉄則と天竹さんはいさぎよく、4年8カ月で文化財課を去っていきました。

 では本題にもどります。 こんどは大和川の上流へ、すなわち、奈良盆地の水系について、話をすすめていきましょう。 府県境を越え、奈良側になりますと、私は一住民、生活者の目線もくわわり、関心はもっぱら、「防災と景観」という方向になります。旅気分で大阪側に出かけ、古い時代の川跡をぼんやりと眺める、そういった心持ちばかりではありません。災害につよく、しかも心安らぐ水辺をどうつくっていくのか。あれこれと思いをめぐらせてきました。対立しがちな、これらふたつの命題を解くかぎは何でしょう。私は、ため池という固有の地域資源を積極的に活用する総合治水に注目しています。

 むかしは、日照りに苦しんだ人々が農業用水を確保するために築造し、農業土木遺産ともいえますが、現代の視点では、素朴でホッとする田舎景観、そして生物多様性に貢献する水辺など、色々な価値があるのです。

 しかし、農家も減り、池は住宅開発などに供され、奈良盆地の古池は激減の一途をたどっています。戦後は吉野川分水が実現し、上流には大迫、大滝の巨大ダムができました。こうして、水系のちがう吉野の水を、大和川流域の農業用水に安定的にもらうことができるようになったことも、古池が潰されていった一因でしょう。

 ため池に関心をもったのは2000年ごろ。大和川水系の岩井川という河川に、奈良県が治水ダムの建設計画をすすめているのを知ったことがきっかけです。旧県道をダム湖に水没させ、新しく付け替える県道の一部が、世界遺産・春日山原始林のバッファゾーンにかかってしまう。こうした緩衝地帯は開発をしないという約束事があるので、ダムの代案をさぐっているうち、ため池の洪水調整機能に関心をもつようになりました。

 それだけではありません。 奈良盆地のため池をめぐっていますと、お年寄りから面白い話を聞くことができます。むかし泳いだとか、棲息する淡水魚を食べたとか。なかなか風情ある話だと感心し、ますます古池が好きになりました。

 奈良市にある奈良町は、48ヘクタールが景観形成地区といい、町家の修繕に市が公費の助成を行っている。その第1号が、福智院という古刹の向かいにある小料理屋で、そこのご主人は、中学生のころ、ため池で泳いだと聞きました。戦後、中学校の用地となって、池はもうありません。奈良盆地では、皿池といって、田畑の四方をえん堤でかこったものが多いが、ご主人が泳いだのは谷池といい、谷川をせきとめ造ったものです。さながら、小さな多目的ダムです。春日山にわりと近い池でした。

 「池の水はとても冷たく、そぉーと水に入ってから泳いだ」  こんなふうに回想していました。 きちんと管理されているため池は、晩秋から初冬にかけ、水を抜き、えん堤を乾燥して強度を保ちます。奈良市の紀寺町にもむかし、ため池がありました。その町に住んでいる生物の先生に聞いたのですが、幼いころ、秋祭りが近づいてくると池の水を抜き、フナやウナギなど穫れた淡水魚を祭りのごちそうにして、みんなで食べたというのです。

 灌漑の用途だけでなく、いまふうの言葉でいえば、地域コミュニティの場となって、生活に溶け込んでいたのですね。 奈良市内の脇戸町という元興寺かいわいの町の仏壇屋のご主人も、子どものじぶん、ため池の淡水魚の料理を食べたと聞きました。JR奈良駅の前にもかつて、三条池という大きな池があり、フナを養殖した記録が残っています。

 昭和50年代のはじめには、1万3000個ともいわれた奈良盆地のため池。すでに6000個を切ったと聞いたのは、もうだいぶ前の話なので、いまはどれほどの数になっていることでしょう。

 もの哀しい話もあります。 奈良県内のある土地で、ご多聞にもれず、ため池の宅地開発が持ち上がりました。おかたい言葉で説明しますと、この池は、地方自治法にもとづく地縁団体の共有財産でした。ところが一部の役員たちが、住民の知らないところで、議事録を偽造してしまい、いつのまにか、池の売却が決まってしまう。

 とかく保守的だといわれる奈良ですが、100人の寄り合いがあれば3人ぐらいは「おかしい」と意見を言ったのだろう。地区の寄り合いか何かで、お寺の住職が先祖伝来の池を安易に売却することに反対した。この寺の境内は日ごろ、子どもたちの遊び場になっているが、住職が反対意見を述べたとたん、だれも遊びに来なくなったというのです。これは一体、どういうことだ。

 ため池の開発がもたらした共同体の崩壊ではないでしょうか。住民の知らないところで一部の者が大事なことを決めてしまい、率直に反対意見を述べた人が排

 まぁ、こんな話でありましても、知らないよりは知ってよかったと思います。奈良盆地のため池にまつわる色々なお話、治水の役割、生物多様性、伝説など、書き残しておこうと思います。

 さて、会場のみなさん。東大阪の方であれば、池の魚を食べた…というお年寄りの話を聞いて、何か思い出しましたか? お手元の新・旧大和川の水系地図に、abc…と、これまでお話しした地域資源の位置をアルファベットで印をつけましたが、「m」のところをご覧ください。そこが近鉄布施駅前の商店街にある「淡路屋」の位置になります。河内ブナの洗いを食べさせてくれる店なのであります。道端から、いけすの水槽にフナたちが泳いでいるのが見える。郷土史家の杉山三記雄さんに案内され、数人のグループでわいわいと店に入ったのですが、酢みそで頂くおつな味でした。瓢箪山の井戸水で育てていると聞きました。ため池がそれなりに残る奈良には、こんな店はなくて、大阪にある。さすが大都市です。

 杉山さんによると、大和川の付け替え大工事の後、当地で大きな河川はなくなったものの、残された川から豊富な淡水魚が採れたそうです。1800年ごろの河内名所図絵には、雑魚の漁でにぎわうようすが生き生きと描かれています。   

 付け替え前には、大きな池がありましたね。深野池といい、いまも大東市に深野という地名が残っていますが、むかしは一大漁場だったようです。 あれは元禄2年。付け替え工事の15年前にあたる時代、博物学者の貝原益軒が東高野街道を通って、この地にやって来ました。益軒は『南遊紀行』にくわしく書き残しています。

 「湖に似たり、そのなかに島あり…」という情景です。池には、コイ、フナ、ナマズ、ウナギなどのおびただしい淡水魚が棲み、漁師の舟が行き交っていたそうです。採れる魚は「日々、大阪に売られていた」とあります。当地は河内ですから、摂津方面への商いでしょうか。

 益軒の記録には、深野池の水棲植物相の豊かなさまもあらわれます。ハスやミズブキ、アシなどか生い茂っていた。ことにヒシというヒシ科の一年生の水草が最も多く、「飯にし、団子にし、粥にし」とレシピもいろいろ。実をゆでて、食べたのでしょうが、「お菓子にもする」と益軒は書いています。河内木綿の再生活動などと共に、いにしえのお菓子づくりを復活するのも楽しいでしょうね。

 湖に似ていたという深野池のほとり。 益軒は、百有余年前の時代を思い浮かべただろうか。永禄年間、16世紀の後半のころ、このあたり一帯がキリシタンの聖地だったことを。

 河内キリシタンの時代がありました。本日のお話の冒頭、ポルトガル人宣教師が旧大和川をさかのぼって飯盛山城に来たという話をしましたね。アルメイダという人で、ルイス・フロイスの『日本史』によりますと、奈良でも布教活動が行われ、けっこう群衆もあつまり、感化された人は少なくなかったようです。しかし、人々は仏教勢力の報復をおそれ、おっかなびっくりで説教を聞き、距離をもっていたふしがある。

 ところが生駒山を越え、河内の国に入りますと、ときの支配者、三好長慶がキリスト教に寛容な態度をとったことから、家臣の三箇頼昭に代表される有力なキリシタン大名が誕生します。頼昭は洗礼名をサンチョといいました。家来をはじめ、数千人が続々と入信する。サンチョは深野池のほとりに立派な聖堂を建てた。フロイスの『日本史』によると、寺院を改修したもので、寝泊まりができる付属の建物のある美しい教会だったそうです。邸宅は修道院のようであったといいます。

 以来15年間にわたり毎年、おびただしい小舟をうかべながら盛大な復活祭(イースター)やクリスマスを祝ったそうです。 三箇サンチョの息子もキリシタンで、三箇マンショという人ですが、本能寺の変のときに明智方についたため、聖堂などの建物はことごとく破却されたといいます。

 河内キリシタン…。ワインの銘柄にしてはどうでしょう(会場から温かな笑いがもれる)。河内のオッサンの唄とか、今東光が描いた泥臭い河内などとは、味わいのちがう世界がひろがっています。深野池の聖堂なんて、ホント、想像力をかきたてられます。エキゾチックな河内、ここにありという感じです。

 10年ほど前にも、四條畷市の田原城跡のかいわいから田原レイマンというキリシタン大名の墓碑が見つかり、話題をさらったことがあります。実は明治時代にも、キリシタンの墓碑が発見されたという話を、大東市の野崎キリスト教会の神田宏大牧師から聞きました。

 明治というのは、キリシタン弾圧の記憶がまだ生々しかったのでしょう。 「だれぞが堺から捨てにきよってん」 かかわりあいになることを恐れた村人は、こう言い放って、墓碑を川に投げ捨ててしまったと、神田さんは残念がります。

 どこの川だったのでしょう。恩智川なのか、それとも寝屋川の流域でしょうか。 神田さんはいまも、農作業をしている人を見かけると、墓石のようなものが出てこなかったか、熱心に尋ねています。ここにも、河内の人たちの郷土史に寄せる執念を感じます。歴史の地層は深い。

 ある日、畑をすきで耕していると、コチン…という音がして、大発見の日が来るかもしれません。  おわりに、現代の大和川の写真集を紹介したいと思います。

 私は奈良に住んでいて、観光地の宿命というのでしょうか、土地の表情の一部を実態以上にことさら美しく撮っている写真をよく見かけますが、あまり好きではありません。

 これは八尾市に住むカメラマン、金勝男さんの写真集『大和川慕情』です。コンクリート護岸や流れ漂うゴミ、河川工事の現場などをあえて隠さず、ふだん着の大和川をありありと写している。夏の日の暑い盛りに藻が繁殖し、川面を占領している場面なんていうのもある。それだけに、人知れず咲く花たちの愛くるしいこと。秋の日のススキ、群れさわぐカワウ、ほとりで農作業をする人々。広い河原で繰り広げられる河内音頭の祭典。こんな大きな川を江戸時代にわずか8カ月間の工事で付け替えたのだなぁと感心します。

 写真集がきっかけとなり、斑鳩在住の映像作家、横田丈実さんが脚本・監督を手掛け、同名の映画にもなりました。 「人生を思わせる大いなる流れだ」

 横田さんはいいます。  では、みなさん、ロケ地はどこの街だと思いますか? お配りした地図をご覧ください。大和川水系の高田川の流れる大和高田市です。地元のまちおこし団体がエキストラとして出演しています。この高田川も昭和のはじめに洪水対策として付け替えられました。11年かかっています。街の中心部の道路が蛇行しているのは、川跡そのものですね。

 むかし、川のあった名残で、いまも天神橋というバス停があるし、天神橋筋を名乗る商店街もあります。  川は物思いにふけるところ。 橋のたもとは誰かと待ち合わせをしたところ。

 水害との格闘もあった。 新・旧の大和川、そして上流、下流の地域をこれからも歩き、温故知新のまちづくりを探っていきたいと思います。 ご清聴ありがとうございました。

 (川中邸文化フォーラムの講演内容をもとに加筆して構成)

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