芥川山城の三好さんまいり

浅野 詠子(ジャーナリスト)

関西山城サミット2013in飯盛山城(2013年10月13日)会場配布資料

 すり減った石段が数段、ゆるやかに細い水路へと通じている。きわにある民家の人々は、そこを降りて水辺に向かい、泥のついた野菜などを洗っていただろうか。川と暮らしが溶け合っていた往時をしのばせる。

 大阪府高槻市郡家の集落。なんとも幸先のよい光景を目にしたものだ。この日は、農地に水の恵みをもたらした恩人をしのぶ行事が待っていた。私は同行を許され、山の中腹に向かうマイクロバスが出るまでの束の間、あたりのようすを目に焼きつけていた。

 旧村らしく、納屋に玉ねぎの束を吊るしたり、取りすました白壁の蔵などものぞく。芥川から引いた小さな水流は淀みなく、感じのよい音を立てている。まわりの家並みは、水のしたたるような風情がある。

 ときは永禄二年。いまから四五〇年ほど前の出来事に触れる。芥川の利水をめぐり、郡家村と対岸の真上村との間で水争いが起きたのだ。お裁きは、ときの権力者、三好長慶である。現地調査の結果を踏まえ、「郡家に理がある」と言い渡した。

 その裁定に感謝し、いまも郡家の人々は年に一度、長慶の祠の参拝を欠かさない。

 めずらしい民俗行事なのであろう。高槻市立しろあと歴史館の西本幸嗣学芸員が『大阪春秋』(平成二五年新年号)に寄稿した随筆「三好山(芥川山城跡)まいり−神になった三好長慶」を読み、初めて知った。

 これには感心した。

 「ミヨッシサンマイリ」。小さい「ッ」の促音をまじえ、地元の人は行事をどう呼んでいるのか、そうした細部の観察をはじめ、行事の一部始終を西本氏は丁寧に、正確に書き残している。

 雨乞いの踊りというのは聞いたことがあるが、水利権を確定した為政者にお礼をする催事というのは初耳だ。

 地域がひとつにまとまる、結節点のような役割を果たしながら、長慶がもたらした「郡家、勝訴」の判決は、現代に生きている。

 河川にちなむ古い逸話をあれこれ、頭のなかで転がしてみる。

 古代の狭山池、戦国の信玄堤、くだって江戸中期の大和川の付け替えなど、治水、利水にまつわる豪壮な土木遺産や大型土木工事が浮かぶ。東大阪などにいけば、いまも付け替え工事をテーマに、歴史勉強会が開かれたり、新田に生まれ変わった旧河川の跡をたどる散策会も行われている。

 川水を田畑に送る堰なども、先人が残した遺産に違いないが、それこそ、いたる地域にあって、平凡ななりをし、忘れられている。

 井堰の水争いをめぐって、まちの文化財として踊り出てきたのが、長慶の裁許状である。この『郡家区有文書』は昭和五八年、市の有形文化財指定の栄を受けたのだった。水争いの場所は、『三好長慶水論裁許井出絵図』という資料がはっきり証明してくれる。西本氏によると、長慶は、水争いの現場に役人を派遣して調べさせ、郡家の農民が井堰を利用した頻度を証拠に、決着をつける。

 「郡家極楽、津之江は地獄、なおも五百住は水地獄」−。

 古老はいまも口ぐちにこうつぶやくと、西本氏は書き記している。古調のリズムに乗って、おどろおどろしい感じがしてくる。水害で苦しんだ下流の津之江、水不足に見舞われた五百住を地獄と呼んではばからない。容赦のない文句だ。命の水を決して粗末にするなと、子々孫々にわたり、戒める警句にとれる。

 近世の水争いは、ところによっては延々と長丁場になったり、鎌などを武器に、農民同士が刃傷沙汰におよんだ地域もあると聞く。

 敗訴した真上の民の心中は、穏やかではなかっただろう。争いの現場となった河川のすぐ北に、いまも西真上という地区が健在だ。

 西本氏はいう。

 「お年寄りの方々が幼いころ、芥川をはさんで、真上、郡家の子どもたちが石を投げ合って喧嘩をしていたそうです」

 三好さんまいりの日が巡ってきた。本年八月四日のことである。めざすは三好山の山頂だった。夏草の生い茂る道中にそなえ、一行はふだん着の長そで、長ズボンのいでたちではあったが、温厚な紳士然とした印象を受けた。すなわち、この山こそ、長慶が居城にしていた芥川山城跡であり、神となって祭られている。草深い山頂に、畿内の覇者の祠がぽつねんと一棟。なんだか街角のお稲荷さんといった、気さくな構えである。よく見ると、屋根瓦のところに、白い蛇の抜け殻がカサカサに乾燥して張りついている。脱皮したそれは、魑魅魍魎めいた姿をしていた。こんなものに出くわすところに、城郭の夢の跡、という感興がわき上がってくる。

 郡家の人々は一生懸命に祠を守り、清め、祈る。そして下山後は、摂津峡の温泉旅館で、にぎにぎしい直会を繰り広げる。その一切がっさいが、躍動的な無形文化財に映る。行事は戦前にあったといい、長慶が没した七月四日を新暦にあわせ、営んでいる。

 この時期は、田んぼへの水入れが終わり、収穫に向けた大事な季節を迎える。台風や水不足など、自然の猛威から地域を守ってもらう意味もあるのではと、西本氏は寄稿文のなかで考察していた。

 祠に差し出されたお神酒、もち、スルメなどのお供え物のなかに、ミカンがあった。それは真冬にこたつの上で食べるものと相場が決まっている。盛夏に売られるしろものだから、値段も張るに違いない。

 「ミヨッシサン」に中途半端なものをお供えしてなるものか。そんな気概を見せつけられた。

 三好さんまいりの一行、九人の壮年のうち、現役の稲作農家は何軒ですか?と尋ねてみたら、五軒だという。大都市のふところにあって、素晴らしいですね!と返したら、一人は神妙なおももちでいった。

 「そりゃ、ちとさびしいのぉ」

 郡家極楽の名声は、長慶ゆかりの潤沢な農水、そこから生まれる産物とともに末代に伝えていきたい。全員が現役の農業者であれ。そんな思いを感じとった。直会には、最古老で、素盞鳴神社の守役、岩本和夫翁の元気なお姿もあった。飲めや歌えの宴、たけなわの昼下がりである。

 石垣も見事であるが、芥川山城は、頼もしい人垣に囲まれている。

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