「公営ギャンブルと地方自治−説明責任の行方」

浅野 詠子

  あまたの文化・スポーツ行事の開催案内が県の広報紙にひしめくが、「競輪だけは、どうしても掲載してくれない」−。県営競輪を管轄する奈良県商工労働部の職員からこんな嘆きを聞き、ギャンブルとは無縁である私も、「公的行事」の扱われ方の格差に着目し、その現実を記事にした。こちらの予想に反し、ほどなく「県政だより」にレース案内が載るようになった。当局は、いずれだれかが指摘してくれるのをじっと待っていたのだろうか。その一連のやり取りにおいては、自転車競技の“元締め”である経済産業省の官僚が「驚いた」と聞き、私の方も驚いた。なぜなら、府県レベルで競輪の案内が広報紙に掲載されたのは奈良県が始めてとなり、国から「画期的」などと評されてしまったのである。
 経営する施設を自ら忌避するような矛盾的行為を通して、自治体の独立財源はどうあるべきか、考えてみた。
 競輪に限らず、全国の公営競技が低迷している。奈良県営競輪は往時、一般会計に年間22億円もの繰り出しをし、縁の下の力持ちだった。が、特に評価も設備投資もされず、特別観覧席さえない地味な施設として取り残された感がある。ただ、従事員の賃金だけは、県外競輪場の労組未組織労働者と比べ、2倍以上の高水準を保っていた。12年度からは初の赤字に転じて廃止論が浮上し、県は黒字転換への「生き残り策」を外部監査人に提言させている。
 財政危機と分権が同時進行し、自主独立の自治体財源が渇望される時代。大阪府が「カジノ特区」構想を政府に提案したように、これからも新種のギャンブルは各地で考案されるだろう。
 そうなると、刑法には賭博罪があるのに、自治体はなぜ“胴元”になり得るのかという原点に戻らねばならない。「公営ギャンブルだけは例外」とする法に守られ、賭博開催の根拠をあいまいにしたままでは、自治は決して高まらないはずである。
 説明がつかぬまま、議会も「黙認」するような歳入があってよいはずはなく、存続を意図するのであれば、自らの言葉で意義を明示した条例を編み出し、その上で可否判断を住民に委ねてほしいものである。
 ◇
 競輪の来場者は急速に高齢化している。関西では岸和田競輪のデータがあり、60歳以上の割合は46・5%(2001年)=日本自転車普及協会調べ=にも達した。約7年前と比べて2倍近い高齢者率である。
 裏返せば、新規の若者ファンを獲得できなかったことになるが、「ここは高齢者にとって安心できる場所ですよ」と奈良競輪の職員は妙なところで胸を張る。医師や看護師、警官が常駐するほか、「自衛警備隊」というイカツイ名称の警備集団もいて救護活動の層は厚い。市消防局救急隊との連携により、お年寄りが一命をとりとめたというエピソードさえある。「知的な推理」とも評される遊技の特性を高齢者福祉の観点から見直すと、バリア・フリーの再整備により、生き残りを図る競技場が現れるかもしれない。
 「ほどほどに楽しむ」という健康的な精神状態に支えられながら増収を図ることは可能だろうか。公営競技が原因となって引き起こされる“人生の破たん率”のようなデータも必要だ。ギャンブルが起因となった多重債務問題や家庭崩壊が気になり、依存症とその克服について知りたく、県健康局のケースワーカーを訪ねることにした。酒税として地方交付税の源流になっている飲酒行為に対しては、保健所は断酒会を支援するなどして、依存症の県民を救う活動を行っており、何かヒントが得られるかもしれないと考えた。
 ところが、アルコール中毒と比べ、ギャンブルに対する過度の依存を克服できる人は、「非常に低い確率」との回答だった。むしろ「依存症は悲惨で不幸なこと。公営ギャンブルの廃止こそが社会的予防」と諭された。ただし、自治体によってはごくまれに、「ギャンブル依存症者匿名会」などの組織を支え、患者の社会復帰を応援しているという。文化と福祉の幅は広いのだと考えさせられた。

      (2002年10月 大阪市政調査会刊『市政研究』137号)


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