酒井七馬の仕事部屋跡を探し当てた男


 
  

 欲張らずに2時間。数人でまち歩きをするのに頃合いな長さであろう。ひと汗かいたあとにビールが待っていて、たちまちほろ酔い加減になった面々が、旧街道筋の来し方行く末の談義に花を咲かせるという寸法だ。この行程はしかし、いわゆる公認の文化財とか有名な景勝地がないような地域でひねり出すとしたら、主宰者の腕の見せどころになる。
 それを見事にやってのけたのが、高橋滋彦氏(工学博士)が構想した散策ルート「赤レンガ・黒タイル・青銅の壁」であった。JR桃谷駅前から歩き始めて鶴橋や玉造の界わいをめぐる。高橋氏が一貫してこだわってきたのは、漫才や漫画で一時代を築きながらも、ゆかりの舞台やアトリエの所在がどこにあったのか、都市化の波に埋もれてわからなくなってしまった巨星たちの住みかであった。
 2010年4月、漫画家・酒井七馬の仕事部屋があった地点をついに探し当てた高橋氏は、「本邦初の発掘」と言わんばかりに少年のように小躍りして指差した。これこそ、ないものがある、記憶遺産の世界である。人々は、雑居ビルやガレージに七馬の影を追う。こんな面白い散策会が日本に二つとあろうか。
 劇画でもお笑いでも文芸でも、表現を志す人はきっとだれかに私淑し、その足跡をたどって、ゆかりの場所に立ちたいと思うはずだ。自分の闘士を重ね合わせて、立ちたいはずだ。
 だから高橋氏の着想は、きっと素晴らしいまちおこしになる。横山エンタツ・花菱アチャコが1930年にデビューした寄席「三光館」はいま、和菓子店に姿を変えている。だから面白い。「エンタツ饅頭、アチャコ羊羹できへんかな」。高橋氏は呻吟する。
 界わいに目を凝らせば、往時のセルロイド産業をしのぶ赤レンガの倉庫や、大正期のモダンな外壁材をあしらった黒タイルの家、くすんだ緑青色を放つ青銅の壁などが点在し、案内されるたびにため息がもれた。ことし生誕105年を迎える酒井七馬やデビュー80周年に当たるエンタツ・アチャコの生きた時代とも重なり、路地裏の余韻はどこまでも深い。
 この日の散策会は、ふとしたきっかけから実現した。わたしも末席に座している「暗越奈良街道倶楽部」のメンバーに2年ほど前、東成区大今里3丁目の赤レンガ倉庫の界わいを案内してもらい、いたく感銘したことがある。倶楽部のことしの新年会でわたしは何気なくそれを話題にして、「大阪レンガ遺産のような話をいずれは書きたい」ともらしたところ、宴席にいた高橋氏が「それなら鶴橋の赤レンガ塀のあたりを案内してやろう」と持ちかけてくれたのだ。
 ところが翌月、「取り壊されてしまった」と奈良の拙宅に連絡が入る。これだから大都市の建築物は油断ならない。開発のはざまでかろうじて生き残り、そして深い余韻を残しながら消えていく近代の建物を、わたしは記憶遺産と呼んでいつくしんできた。祖父母の世代の形見でもあった。
 「高橋さん、鶴橋の赤レンガ塀はとうとう記憶遺産になってしまいましたね」。しばらくは仲間内の語り草にして、これを肴に飲むことになろう。
 すると高橋氏はすかさず、散策の代案として「赤レンガ・黒タイル・青銅の壁」のタイトルを引っさげてきたのだ。あきらめるのはまだ早い。想像力をかきたてる題名とあってか、当日の散策会は街道倶楽部のメンバー10人が参加した。まち歩きの達人ばかりで、それこそ百家争鳴の行列である。
 圧倒されたのは旧鶴橋警察署の赤レンガ塀だ。荒れるにまかせて落剥し、朽ちかけているだけに、作為のない妙な美しさがあった。近くには閉鎖された銭湯の建物がそのまま残っており、昭和初年に流行したという丸窓をかわいらしくしつらえている。
 散策を終えて小宴につけば、取り壊されたばかりのあのレンガ塀が話題をさらっていた。この日、さんざん目に焼きつけた100年級の建物の行方をだれしも案じていたが、間髪をいれずに「隠れ遺産の褒め殺しツアーはどうです!」と切り出す声がする。街道倶楽部の松下和史さん(東成区まちづくりマネージャー)の妙案であり、持ち主に何とかしてその魅力を気づかせて、建物の命を永らえさせたいと腕組みをする。それは一興だ。わたしは思わず膝を打って「赤レンガ・黒タイル・青銅の壁」と呪文のように唱えてみた。
        

(2010年4月 浅野詠子/フリージャーナリスト)  


   

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