ある助監督の思い出


 
   ことしは娯楽映画で一時代を築いたマキノ雅弘の生誕百年に当たる。「識者や批評家に少しも媚びるところがなくて、ひたすら客を笑わせ、泣かせ、酔わせた」―。マキノ映画で助監督を務めた故鍵田忠俊さんは、マキノの世界を私にこう教えてくれた。娯楽の神髄というものがあれば、これだろうか。
 鍵田さんは若いころからマキノ監督に私淑し、旧制奈良中学から日大芸術学部の映画科に進学。敗戦直後の「映研」花盛りのころで、そのころの学生たちの志向はと言えば、左翼思想を色濃く反映させた監督か、あるいは高い芸術性を追求する監督の作品か、二分していたという。鍵田さんはいずれの流れにも逆らうように、どちらの派とも距離を置いて、「面白いシナリオを作る会」というグループに所属。ひたすら娯楽映画の創作に夢中だった。
 あれは五年前のことである。七十二歳になった鍵田さんが自叙伝『人生とんぼ返り−映画監督マキノ雅弘と私』を執筆し、拙宅にも送ってくれた。本書には、日大在学中に大泉映画撮影所の学生アルバイトに応募した鍵田さんの体験が面白く描かれている。百人の受験者が押し寄せ、合格者はたった三人という難関だった。
 「お目当ての監督はいるのかね」。二次試験の面接で試験官からこう尋ねられ、すかさずマキノの名を挙げた鍵田さん。「ほう、いま流行りの黒沢、木下、今井じゃないの?」。ちょっといぶかしがられ、「君はなぜマキノなの?」と問われると、鍵田さんは待ってましたとばかりに力説した。「マキノ映画には屁理屈がありません。インテリや批評家に媚びるヤボ監とは違うのです」。ヤボ監…。試験官はさぞ笑いをかみ殺しただろう。すると別の試験官が意地悪く、マキノの私生活を暴露して中傷した。とっさに試験官の顔をにらみ返してしまい、「落ちた」と彼は確信した。が、なぜか合格した。
 そのころ、大泉撮影所は田んぼのど真ん中にあった。カエルの鳴き声がセットの中にまで聞こえてきて本番に入れず、棒でたたいて殺す。それが鍵田さんの映画人生の初仕事になった。「夜の田んぼの土手を棒でたたいて、走り回った。流れる汗が目に入って、涙になって、流れた」。昨日も走る、今日も走る。「とにかく助監督に選ばれたい!」
 映画青年の夢が刻まれた『人生とんぼ返り』。本書のタイトルは、マキノ雅弘の最高傑作といわれる作品の名だ。刊行当時、鍵田さんから聞いた話では、大々的な出版などは考えておらず、友人や近親者、そしてマキノ監督の甥の津川雅彦氏ら、ごく一部の人にだけ渡しただけという。
 私家版として眠らせてしまうのは惜しい。念願の助監督の座に駒を進めたものの、鍵田さんは体力の消耗から早くに映画界を去り、苦渋の末にテレビ局のプロデューサーに転じた。そうであっても、その新天地においてはマキノ直伝の娯楽番組を手がけてきた。奈良市の出身であり、どこか地域の図書館が所蔵してくださることを願う。

(2008年12月 浅野詠子/ジャーナリスト) 

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