仲川げん奈良市長殿 土田敏朗議長殿

建築史に残る貴重な近代和風、旧都跡村役場の取り壊し中止を求める陳情

2014年4月10日
浅野 詠子
奈良市民、ジャーナリスト

 「なつかしい」という気持ちを起こさせるものは、観光資源として、はかりしれない価値を秘めています。

 昭和8年に生まれた旧都跡村役場の建物は、80余年の風雪に耐え、木造の板塀が、昔の校舎などを連想させる。道行く者の心を温かくしてくれます。

 まして、奈良の建築史をいろどる近代和風の流れのなかで設計され、その姿をいまに残しているからには、大切に保存していくことが公務の神髄といえましょう。

 その価値について、奈良文化財研究所の島田敏男・建造物研究室長は、こう書き残しています。

 「最小規模の庁舎と議事堂が、ほぼ当初のままセットで残っている点で、貴重な存在」(『奈良県の近代和風建築』より、奈良県教育委員会発行)

 では保存の必要性について、具体的に列挙してみましょう。

  1.  近代和風の建物は、古都奈良の景観づくりに挑んだ先人の業績をつぶさに残す文化財であり、建築史上、旧都跡村役場の庁舎および議事堂は、その流れにおいて貴重な遺産と位置づけられる。

  2.  市はこれまで、積極的に近代の遺産を保存、維持してきたが、そうした施策と整合性を保つうえでも、旧都跡村役場の建物を取り壊す計画を中止し、消失によるマイナス面を十分に検証する必要がある。
     (市が民間や県などから取得し、保存している近代の建物は、旧JR奈良駅舎、旧南都銀行手貝支店、旧鍋屋交番などがある)

  3.  仲川市政は2012年5月、「近代建築物語〜奈良・武雄の古館(こかん)追想」と銘打った新規事業のなかで以下のように表明している。
     「近代遺産をはじめとする地域に埋もれた資源を再発掘し、魅力ある観光地づくりを目指す」
     あえて「埋もれた資源を再発掘する」と言及しているわけだが、旧都跡村役場の建物が、文化財的な価値を有しながらも、いまだ広く市民に知られてはいない、との見方に立てば、「埋もれた資源」としての側面は十分にある。したがって、これを壊してしまうのは、政策上の矛盾になる。
     さらに、この新規事業は、明治の建物である奈良ホテルをひとつの核にしており、近代和風という建築の意匠から、同ホテルと旧都跡村役場の建物は兄弟姉妹の関係にあり、取り壊しは施策に一貫性がない。

  4.  旧都跡村役場の建物は、立地する場所が、世界遺産の第二バッファゾーンに当たる「歴史的環境調整区域」(ハーモニーゾーン)である。したがって、唐招提寺や薬師寺の周辺の環境や風致に貢献している。

  5.  市が景観形成に力をいれる「ならまち」において近年、民間の登録有形文化財が惜しまれながら壊された。
     古い木造建物の保存をめぐっては、個々人の力ではどうにもならない事情があり、残念な取り潰しの事例は当地にかぎらず、毎年のように市内各地で報告されている。
     しかるに、このたびの取り壊しの俎上にある旧都跡村役場の建物は、れっきとした市有財産である。いわば市民みんなの宝である。
     文化財の専門職員によると、この建物は、登録有形文化財に匹敵する。丁寧に育てていけば、やがて国の重要文化財の候補になり、観光振興に大きく寄与する公算だ。

  6.  市は旧都跡村役場の建物を取り壊し、底地に地域の集会施設を新築する計画だ。集会施設は他の場所では不可能なのか、検証する必要がある。参考までに、私の住む町内会は、同じ旧都跡村内に位置し、六条西5丁目第1自治会というが、地元の老人ホームの会議室を借りて集会をしている。たんぽぽの家を借りたこともある。
     新築の箱モノをつくることが自治振興ではなく、地域の福祉資源や学校の空き教室などの活用、交流をさぐってからでも遅くない。

 以上が取り壊しの中止を求める主な理由であります。すこし説明を加えます。

 近代和風とは、大和路の一時代における特徴的な景物である。

 きっかけは1894年、奈良公園にバロック様式と呼ばれる奈良国立博物館が完成し、「洋風すぎて古都にそぐわない」などのきびしい批判が続出したことだ。以後、昭和初めころまで、景観に配慮した和洋折衷の新築物が続々と奈良にお目見えする。

 拙著『奈良の平日 誰も知らない深いまち』(講談社)の第5章「古都に息づく近代化遺産」でも取り上げたが、この博物館がもたらした景観問題を教訓として、奈良公園の新築のお手本たる標準設計になったのが、1895年に建築された旧奈良県庁舎(解体)である。洋風の木組み構造に瓦屋根をのせて和風を強調し、正面の車寄せには粋な「かえる股」をしつらえていた。

 その後、県令第8号(1902年)により、奈良公園の隣接地における新築は許可制になり、行政指導によって洋風の新築が制限されていく。

 以来、奈良公園周辺だけでなく、県一帯に近代和風の建物が続々と登場する。県令第八号が施行された年には、設計者の関野貞が平等院鳳凰堂をイメージした旧奈良県物産陳列所(現、奈良国立博物館・仏教美術資料研究センター)が建ち、翌1903年には橿原市今井町に旧高市郡教育博物館(現、今井まちなみ交流センター「華甍」)が完成した。5年後の奈良公園には、同博物館と同じ設計者の橋本卯兵衛が千鳥破風の装飾をほどこした旧県立図書館(後に郡山城址に移築)を手掛ける。

 昭和に入ると、瓦屋根に十字架をのせた奈良基督教会堂(1930年)が興福寺境内の隣に建ち、同年、桜井市内には天理教の敷島大教会、そして旧都跡村役場(1933年)、旧JR奈良駅舎(1934年)など、個性ある近代和風の建物が各地で花開いた。

 旧JR奈良駅舎は、県のJR奈良駅付近連続立体交差事業で取り壊しが決定していたが、保存運動に1万4千人の署名が集まり、2001年、奈良市が保存に名乗りを上げる。旧鉄道省時代の最後の社寺風建築といわれる駅舎が間一髪のところで残された。

 この駅舎について、運動を推進した一人は、「心の奥底に焼きついた地域の風景」と評していた。

 その市が、こんどは進んで近代遺産を破壊してしまうのは残念でなりません。建築史上の証拠を、先人の心を、どうか捨てないでください。

 おわりに、歩いて楽しい旧都跡村役場の界わいの魅力にふれ、陳情を締めくくります。

 建物の周辺は、ちょうど平城京の三条大路や西一坊大路が通っていたあたり。そこに昭和のはじめの建物がたたずんでいる。まるで歴史の万華鏡をのぞくような何ともいえない心持がします。

 ありきたりの観光では得られない散策が内外の人々をわくわくさせるでしょう。たとえば近鉄西大寺駅を起点にして、古刹の西大寺、水辺の垂仁陵などをめぐり、世界遺産の唐招提寺や薬師寺に向かう途中、昔なつかしい村役場にふと出くわすような面白いコースを設けることができるのです。

 旧庁舎の南隣には雰囲気のある木造の民家が、旧議事堂の北隣は、年代ものの火の見やぐらや瓦屋根の消防団支所などが連なっている。こぢんまりとしているが、落ち着きがあり、どこにもない風情を漂わせている。

 なつかしい―。込みあげてくるその思いは、残したい、守りたいという感情と、どこかでつながっている。市の学芸員がかつて、こんな一文を書いたことがあります。

 市民のほとんどが取り壊し決定の事実を知りません。近寄って木目の温かさを感じたり、何かの機会に、近代和風という古都ならではの創意工夫があった歴史を知れば、多くの人々が「残してほしい」と願うにちがいありません。

 どうか、都跡村が存在した証である旧庁舎と旧議事堂を取り壊さないでください。

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