なくしてもよい傘

浅野 詠子(ジャーナリスト)

2013年10月13日

 かれこれ十年も前になるだろうか。私がローカル紙の記者をしていた頃のことだ。文化サロンのような少人数の集いで講演を頼まれ、地方分権などにまつわる話をしたと思う。

 質疑応答の時間が終わるか終らないかのうちに、六十恰好の女がいきなり切り出した。

 「おたくの新聞、○○市長に対する連日のような攻撃、あれはおかしいですよ!」

 すると、何人かが同調するように「そうだそうだ」と言い出した。

 これには少し面食らった。くだんの記事については、まったくその通りだと思うが、人を講演に招いておいて、糾弾するとは面白い。

 そのサロンの面々たるや、著名な学者とか、地元大手企業OBのだれそれとか、NHK奈良支局長、フリーアナウンサーなど、地元の名士と呼ばれるお歴々である。お客様にそんなことを言っては失礼ですよと、諌める者は誰もいなかった。

 思うに、弱小紙をどこかで小馬鹿にしているのであろう。

 講演料は一万円か二万円かは忘れたが、連中との縁もこれまで…という思いがあり、この金を使って、近鉄百貨店の傘売り場で値の張る雨傘を買ってやろうとたくらんだ。

 ちょっと気取っておしゃれな傘をもっていきたい会合のときに、雨がやんで、うっかりどこかに置き忘れたとしても、微塵も後悔しない。それも一興ではないか。

 まばゆい黄金色の一本をえらんだ。外側は無地であるが、開くと内側は、ボタンの花に似た握りこぶしぐらいの模様を散りばめている。雨の日に咲くといった風情で、捨てるために買った。

 そのころ、奈良市の保健所は、まだ県が運営していた。つまり奈良市が中核市になる前の話である。何かの取材で出向いた折、ある獣医(女性)の県職員から「お国はどこですか」と尋ねられたので、「神奈川です」と答えた。

 「へぇ〜そう…。じゃぁ相模女子大?」

 「いいえ。青山学院大学です」

 すこし沈黙があったが、相手は別の話に変えてしまった。

 神奈川県出身。奈良新聞の記者。相模女子大学。職員はなぜ、こんな連想をしたのだろう。会ったばかりの相手に、固有の大学名を挙げて尋ねている。職員は隣の静岡県の出身で、北里大学か麻布大学の卒業だった。

 記者は一年生、二年生…と学齢のように経験年数を語るのは、ローカル紙も大新聞も同じである。あれは八年生になったころ、知人の市議が「お好み焼きパーティをやるから遊びに来ない?」と誘ってくれて、ネタほしさにいそいそと出かけた。

 細君に型どおりのあいさつをすると、社歴を尋ねられたので、すぐに年数を返した。

 「そうですか。高校を出てから、もうそんなになるのですね」

 「いいえ、大卒です」

 すこし沈黙があったが、相手は別の話に変えてしまった。

 奈良新聞の記者。高卒。細君はなぜ、こんな連想をしたのだろう。会ったばかりの相手なのに、高卒と決めつけてかかっている。

 日本人は、ことのほか肩書が好きなようである。

 ローカル紙は五年前に退社し、フリーになった。執筆した二冊目の本は、行政の情報公開にまつわるものだった。

 これに対し、東京の江東区役所に勤務するという者が書評のブログで、内容を攻撃してきた。反響はうれしいが、「だから弱小紙と業界紙出身の人は…」という人を見下した下りが気になった。

 虫けらにも魂がある。

 人は「どこ」で働いたかではなく、「何をした」かが大事なのではないのかな。中小企業に就職すること自体、なんら恥じることではない。

 全体の奉仕者として、もう少し思いやりの心がもてないものかと感じるが、匿名で罵詈雑言を発するというのは、いかにもケチくさいやつだ。

 前後して、私の第一作の単行本は、土地開発公社がテーマである。自治体の財政を悪化させた不毛な公有地拡大をめぐっては、若い世代に負担を押しつける格好で、これからも延々と尾を引く問題だ。

 発売から四年経っても、ときどき反響が舞い込む。本年四月には、関西テレビの梅垣という記者から、「スーパーニュース アンカー」という番組に出演してもらえないかという依頼があった。奈良市内で深刻な問題になっている塩漬け土地の現地を私が案内し、解説するというシナリオ。最長10分程度の番組と聞き、五月のはじめに収録があった。

 朝の十時ごろからカメラは回り、法外な値段で買収された東部山間の中ノ川町では、現場の山林をはじめ、民家を何軒か訪ね、声を拾った。午後からは、西部の奇怪な山林をまわり、取得の目的がまったく不明で、地権者の利得のために公金を投げ捨て買収したとしか考えられない公有地を案内した。夕方近くになるまで撮影はつづいた。

 塩漬け土地をまわった後、当初は、関テレの奈良支局でインタビューに答える予定だったが、「殺風景なので、浅野さんの自宅で撮らせてほしい」と頼まれ、前日は、スス払いの大掃除に明け暮れる始末である。四冊目となる単行本の取材と執筆に追われ、二階の書斎へとつづく階段にも、ほこりがたまっていたのだ。

 そんなわけで、記者、カメラマン、アシスタントなどの一行はどやどやと拙宅に上がり込み、一時間ほどかけて、土地開発公社の視点や展望などを私は語り、六時ごろ、ようやく帰ってくれた。一日仕事という感じで、どっと疲れが出た。

 なにしろ、次作のテーマは、心神喪失者等医療観察法といって、精神疾患のために他害行為におよんだ患者の強制治療にまつわる人権に迫る内容である。頭はそれでいっぱいなのに、何もかも中断し、自治体の財政問題に頭を切り替え、最新の情報にも注意を払いながらテレビで解説するというのは、労力がいることだった。

 いよいよ本題であるが、放映されなかったのである。五カ月たったいまも、テレビ局側からは何の釈明もない。

 そこで思った。さんざん塩漬けの山林を引きまわし、自宅に押し掛けてインタビューをした相手が、かりに有名な文化人とかタレントであれば、これで済ませるわけはないはずである。

 相手を見ているのだ。

 それにしても、痛快な気持ちがこみ上げてくる。 というのも、地デジ化の流れを機に、わが家からテレビは消えていたのだ。当面は、テレビ文化との距離を置き、自分の個性を養ってみたいという思いが募っていたからだ。縁を切ったメディアに出演するというのは、虫のよい話であった。

 「取材した記者は、是が非でも土地開発公社の問題を伝えたいという思いがなかったのだろう」

 インターネットニュースを主宰する家人は、そう言った。

 相手がだれであれ、態度を変えない文化人は品がある。

 元後輩の記者に聞いた話だが、何かの取材で夜おそく、高松塚古墳の発掘で知られる考古学者、網干善教博士(1927-2006)に電話をかける必要に迫られたという。事前にアポを取り、玄関先などで話を聞くべきところを事情が許さず、失礼を省みなかったのであるが、一面識もないローカル紙の記者の質問に対し、網干氏はすこしも面倒がらず、懇切丁寧に解説してくれたそうだ。

 「あんな大先生なのに、私みたいなペーペーの者に…。ホント感激しました!」と頬を紅潮させて言うのだった。

 とある大阪の小宴では、〈幻の塩漬け番組〉の話で持ち切りになった。

 「私が責任をもって録画してあげます」

 ある自治体職員が発した温かな言葉が、にこやかな笑いを誘った。

 京橋は雨が上がり、私の手は、まばゆい黄金色のそれをしっかりと握っている。

 なくしてもよいはずの傘は、もはや、お気に入りの傘になった。

 思えば、ローカル紙に長年、身を置いてきたからこそ、名刺の威力に頼らず、現場で格闘することができた。肩書きが幅をきかせる閉鎖的な土地では、人間の本性のようなものを色々と観察した。

 「講演は社の宣伝になるからどんどんしなさい」

 上役の一言には、感謝しなくてはいけない。

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