山城を生かしたまちづくり

シンポジウム「飯盛山城と戦国おおさか」 講演録

浅野 詠子(ジャーナリスト)

2013年1月26日
河内の郷土文化サークルセンター主催
『大阪春秋』149号発刊記念
会場 大阪商業大学・谷岡記念館

よそ者、まちづくりに参上

 本日は、よそ者の目で発言いたします。日ごろは〈歩いて楽しいまち〉を追求し、エッセーなどを書いています。飯盛山城は昨年10月、初めて登山し、四條畷、大東を歩き始めたばかりの新参ものです。神奈川県の生まれです。まちづくりのキーパーソンは、よそ者・ばか者・若者…といわれますが、ばか者というのは、自分の損得を顧みずにガンガンと障壁を取り除いて突き進んでいく人物が浮かびますね。景観を専門とする人が言っていましたが、「頭のいい人って、すぐにシミュレーションしてしまい、やる前から結論を出してしまうときがありますね」と。まず体を先に動かすことが、まちづくりなのかもしれません。

 本日の会場は東大阪市でありまして、先ほどご報告を頂いた、しろあと歴史館の先生は高槻市、そして多聞城跡をひかえる私の住む奈良市はいずれも中核市になり、さまざまな権限を知事より移譲されていますが、包括外部監査といって、よそ者の目で公認会計士などに行政をチェックしてもらうことが法定の義務となりました。身内の者が見過ごしてしまうことを色々指摘されますが、よそ者の目というのは文化財行政であっても、まちづくりにおいても有効だと思います。

地元のまち歩きマップの可能性、「なわて散歩」の面白さ

 この大商大を会場にしたシンポジウムでお話をするのは3年ぶりですが、そのときは『河内文化のおもちゃ箱』という本の発刊を記念して開催されました。そこにエッセーを寄稿しましたが、テーマは河内の記憶遺産。何年か前に、東大阪市の人々がつくった地元の散策マップに、昭和初年に焼失した帝国キネマの写真が大きく刷り込まれていて、ほぉーっと感心したことが執筆の題材になりました。また、300年前に付け替えられて、もう存在しない旧大和川の河道なども地図に描かれていました。温故知新の地旅といったところでしょう。

 住んでいるまちの散策マップをつくるのは、地域づくりの第一歩という気がします。昨秋、飯盛山ろくの界隈を歩いて、「なわて散歩」(四條畷市商工会発行)という素晴らしい絵地図を入手しました。地元の人しか知らないスポットを満載し、たとえば、バースデーケーキの注文を受ける度に各々のお子さんへ違うメッセージを貼り出す洋菓子店とか、昔なつかしいポン菓子の移動販売車を発見した地点まで落とし込んでいます。まちの人みんなが詩人、芸術家、学者だという精神で、地域の宝を発掘しまくっています。これを片手に人々は、わがまち再発見ツアーに繰り出すのでしょう。こういうものは、有名観光地でないほど、いいものができるような気がします。人々が努力し、汗をかきながら、意外なところに転がっている街の宝を教え合い、オリジナルマップはつくられていきます。

私だけが知っている…と思わせる山城の魅力

 初めて飯盛山城に登り、界隈を歩いた一番の衝撃は、河内キリシタンの世界でした。戦国時代の一時期、畿内を制した三好長慶はキリスト教に寛容な態度をとったといわれ、家臣73人が城内で洗礼を受け、入信者は数千人に広まったと伝えられています。旧大和川の深野池に浮かぶ島々には聖堂が建立され、盛大な復活祭、イースターが営まれていたというから驚きです。

 そのエキゾチックな感じと、流行歌「河内のオッサンの唄」などに象徴される当地のイメージとの異質な取り合わせが何ともいえません。飯盛山城ほど、クリスマスツリーが似合う山城はないかもしれない。一度、全山をツリーのイルミネーションで飾り立ててはいかがでしょうか。

 もうひとつの驚きは、城主の三好長慶は生きている!と感じられたことです。本日のシンポジウムは『大阪春秋』149号(特集「飯盛山城と戦国おおさか)を記念していますが、その中に「三好山まいり−神になった三好長慶」というエッセーを高槻市立しろあと歴史館の西本幸嗣さんが書いています。これによると、永禄2年(1559)、芥川という淀川水系の河川を境にする2つの村に水争いが起こります。ある井堰の使用をめぐり、左岸の真上(まかみ)村と右岸の郡家(ぐんげ)村との争いになるのですが、三好長慶が役人を派遣させて現地調査を行わせた結果、過去の水利用の実績から「郡家村に理があり」という裁定をする。その文書は今も残り、市の文化財に指定されているそうですが、なんと、今も当地の農家の人々はそのお裁きに感謝し、三好の命日に毎年、氏をまつる三好山(芥川山城)山頂の祠を参拝するというのです。

 すごいなぁと思いました。大阪の野菜ってこんなところからも生まれている。早く現地を歩いてみたいですが、きっと何もない静かな山頂に小さな祠がぽつねんとあって、ただ風が吹いている。金をかけてテーパークなどをつくっても、こうはいかない。金では買えない心の伝承がそこにあるのでしょう。山城というのは、学べば学ぶほど、「私だけが知っている」と思わせる楽しいまち歩きができそうです。

 西本さんの調査によると、古老は今も「郡家極楽、津之江は地獄、なおも五百住は水地獄」と口ずさむといいます。私は奈良県に住んでいて、「大和豊年米食わず」という言葉は聞いたことがあります。昔の農業は日照りに苦しみ、他の地域にほどよい雨が降って豊作になった年には、大和はきまって大雨となり、米の食えない凶作だ…、奈良盆地のわれわれ、お互いつらいよね…と言っているようにも読み取れます。ところが、この大阪・高槻の「郡家極楽、津之江は地獄…」というのは、わがまち極楽、となりは地獄という、あからさまな合言葉ですね。命がけだった稲作がほうふつとしてきます。

「なにもないまち」であるはずがない

 山城というのは、山頂に人寄せ目当ての箱モノなどが「ない」という強さに、想像力をかき立てられます。でも、『大阪春秋』149号に掲載された、まちづくり座談会では、飯盛山城をひかえていながら「大東は何もないまち」といわれることがあるという話が出ていました。市民が謙遜してそう言っているのでしょうね。もちろん、そんなことはなくて、住道本通り商店街協同組合長、小浜且幸さんは「実に多彩な人材がいる」と語っておられます。その通りに違いなく、どこのまちにもないような「人材事典」みたいのをこしらえ、みんなで活用し、色々なことにつながっていくといいですね。

 小浜さんは飯盛山城で狼煙を上げたらどうかと提案しています。これを読んで、前例があるのかどうか、ネットで「山城 狼煙」で検索したら、新潟県の上越市の山城で狼煙のイベントをやってました。飯盛山頂の狼煙もよいですが、逆にわれわれは270度の展望を誇る山頂に立って、はるか遠くに見渡せる六甲とか淡路島から狼煙を上げてもらって、為政者の気分で眺めるというのも楽しいんじゃないでしょうか。

 山城を活用した事例では、河内長野市が2011年に戦国の模擬合戦を取り組んでおり、これも同誌149号において市教委の小林和美さんのエッセーで紹介されています。ふだんは公園として利用されているところだといい、山城としてはあまり認識されないようです。そこに小学生の畠山軍が80人、阪南大学の学生120人が扮する三好軍が合戦をし、畠山軍が劇的な逆転勝利を収めるというシナリオが展開します。新聞紙で礫などの武器をこしらえ、体に触れた人は合戦が終わるまで座っているというルール。子どもたちの歓声が聞こえてきそうですね。

 史実では畠山軍は敗走し、こんな合戦はないそうですが、歴史の細部にあまり拘泥せずに、まずは郷土の宝を大いに活用しようという意欲がみなぎります。まさに〈教科書にない衝撃〉です。この言葉は、本日の行事とも関連のある昨秋の山城サミットにおいて、会場の四條畷短大の理事長さんが、知られざる河内キリシタンの郷土史を教えられたときの感興を言葉に表したものであります。

重層的な歴史に包まれて歩く

 昨秋の飯盛山城の登山は、この模擬合戦を執筆した小林さんや河内の郷土サークルの方々らにご同行頂きましたが、下山後、小林さんの母校である府立四條畷高校に立ち寄り、昭和初期の学校建築の魅力を味わうことができました。太い柱や丸い窓の意匠に近代遺産の息吹が感じられ、登録有形文化財に指定されています。快晴の日で、登ってきたばかりの飯盛山の稜線をくっきりと仰ぐことができました。近代の建物から戦国の山城を仰ぐなんて、何ともぜいたくな気分がこみ上げてきました。

 飯盛山ろくは、何もないどころか、あちらこちらに歴史のしずくが滴り落ちているではありませんか。竜のしっぽが落ちてきた不思議な伝説が残るお寺もあって、天平の行基さんゆかりの古刹だと聞くし、山頂には第二次世界大戦中、B29の来襲に備えた防空監視哨の小さな建物がなぜか残されていました。鉄塔はさびついて、壁面ははがれかけていますが、戦争のない時代を更新する証人として、朽ちながら、いつまでも残ってほしいと思います。

 この地は天平の行基伝説から、古道の東高野街道、そして戦国の山城や河内キリシタン、近代の建物…と実に重層的な歴史に包まれていました。秋の山城サミットでは、私の住む奈良市の多聞山城について「ワンランク上の見せる山城」として、研究者から高い評価を得ましたが、その後、大阪のまち歩きグループより案内を請われ、城跡の界隈を散策しました。近鉄奈良駅から国道369号に進路をとれば、最短距離になりますが、あえてジグザグに寄り道しながら山城を目指しました。まず漆喰壁の知事公舎に向かってから水門町を歩き、東大寺の戒壇院の境内を通って北門の石段を降りてもらうと、人々は大正時代の粋な工場跡に出くわします。

 そこは渋いカフェになっていて、大阪人をあっといわせることができました。天平の古刹と大正の工場の取り合わせ。それは、四條畷高校の近代建物から仰いだ戦国の山城の風情に触発され、こんなルートにしようと思ったのでした。

 山城は復元の厚化粧がないし、客寄せのテーマパークでもない。一見、武骨で石垣がむきだしになっています。ある人にとってはハイキングや森林浴の里山です。しかし学ぶほどに面白く、「私だけが知っている」と思わせてくれるものがある。ところによっては崩落などの心配もあり、目立たない手法での補強が期待されますが、こうした街の黒子、そして熱烈な語り部たちによって、山城を取り巻く未来がつくられていくことでしょう。

=講演録に加筆をした=

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