2010年10月9日「暗越奈良街道サミット」 会場資料

「大阪・奈良の新しい絆  〜よみがえれ生活文化景観」

    

浅野 詠子          


  
■ため池が映し出す「逆さ大極殿」

 高麗橋を起点にした暗越奈良街道がいよいよ奈良市の終点にさしかかろうとするころ、この国道308号は平城京の三条大路と重なり、都のメインストリートである朱雀大路と交差する。北側に朱雀門、さらにその北には大極殿が建っている。
 車道を走るだけではわからないが、佐紀池のほとりをそぞろ歩くと、大極殿は逆さになって詩情豊かに映し出される。まち歩きの楽しさは、こんな発見にもあるだろう。池は古代の庭園遺構とされるが、後に農業用に造り直され、今も満々と水をたたえている。復元された大極殿は、ため池という地域資源の力を借りて、その魅力を増していくように思われる。
 平城京と難波を最短距離で結び、江戸時代には伊勢参りの街道としてにぎわった道。とりわけ生駒市西畑町から萩原町にかけての界わいや、奈良市の追分梅林の辺りには、古い木造民家が点在して昔の雰囲気を伝えており、保全の最重要エリアと言える。しかし東に行くにつれて開発が進み、かろうじて街道の記憶がしのばれるのは、せいぜい近鉄尼ヶ辻駅の付近までとなる。同駅を越えてJR奈良駅方面に向かえば、道路の拡幅も進んで車がびゅんびゅんと飛ばし、歩いて楽しいという雰囲気にはなかなかなれない。
 裏返せば、そうした地域こそ固有の資源の掘り起こしに、挑むに値するのである。

■記憶遺産が語る街道の底力

 街道の界わいを紹介した大阪府側の散策マップには、現存しない建物の写真が刷り込まれていることがある。旧河川の水路さえ、地図上に示されている。「帝国キネマ」や演芸場「二葉館」などの建物であり、歩く者に文化の記憶を伝えている。水路は言うまでもなく、およそ三百年前に行われた付け替え工事より前の大和川。
 これらを私は「地域の記憶遺産」と呼んで、ないものがある街歩きを楽しんでいる。そこが文化財の宝庫である奈良の観光ガイドブックとは大きく異なるところだ。そうした両極端のような大阪と奈良が隣り合っているところに、暗越奈良街道の面白さがあるだろう。
 東洋のハリウッドと呼ばれた長瀬撮影所は、焼失する昭和五年まで、現在の東大阪市にあって威容を誇ったが、「これが大部屋俳優たちが住んでいた長屋です」と、まちづくりの担い手が指さしてくれた。核となる施設は消えても、名脇役のような建物が控えている。朽ちかけた木造の長屋は、何とも言えぬ郷愁が漂う。
 「なつかしい」。込み上げてくるその感情は、「残したい」という思いとしっかりつながっているのだと、奈良市の学芸員が書いていたことがある。平成二十年に大阪市東成区役所がこしらえた「東成区の芸能文化ガイドブック」の表紙を飾ったのは、昭和五年に新築された演芸場「二葉館」であり、これも現存しない建物。浪曲の女王とうたわれた富士月子氏が建てたもので、六代目笑福亭松鶴も初舞台に立ったという芸能の史跡だ。今里新地に近く、三味の音色に事欠かぬ土地柄とあってか、謡いや長唄などの習い事が盛んな辺りだったという。その文化は「伏流水のように脈々と継承され、区民の生活に息づく」と、ガイドブックはまちの誇りを語りかける。
 街道は昔、旧大和川をまたいでいたが、東大阪市内では「渡し地蔵」や「西岸地蔵」など、消えた水路をほうふつとさせる史跡が顕彰されてきた。
 源流を奈良に発して大阪湾に注ぐ大和川は、阪奈を結ぶ因縁の帯のよう。幕府が敢行した付け替えの大事業のときは、大和の高取藩も工事に馳せ参じている。河内の人々は、そんな話を昨日のことのように語らい、酒を酌み交わす。旧河川の跡地には、木綿栽培などの新しい生活文化が築かれ、いわば持続可能な公共事業のひとつの範であろう。

■生活文化産業と共に
 
 昨年の「第二回暗越奈良街道サミット」で、沿線住民から募った街道百景の展示を行ったところ、「古い長屋を利用したなつかしい商売」というタイトルで、大阪市東成区大今里南三丁目の帽子屋さんをとらえた作品があった。金谷一郎さんが撮影。ほかにも週刊誌発祥の地といわれる印刷会社や理髪店、カフェーなど、物づくりや商家などの光景が続々と登場した。
 「この帽子も街道の界わいで作られものです!」と、同サミットでパネラーを務めた建築家の六波羅雅一さんは話し、皮製のそれを粋に被っていた。食材や自転車など、大阪側の街道沿いにはオリジナルな産品がかなりある。古い木造の建物を拠点に生かしつつ、「made in くらがり」のような地産地消運動を繰り広げるにはもってこいである。
 地域の産業と景観が結びつくほど、効果的なまちづくりはないと思う。その最たるものが暗峠に広がる棚田であろう。農業と観光という二つの産業にかかわり、治水効果や生物多様性の確保など多様な現代的価値を秘めている。
 さて峠を下って矢田山を抜け、追分梅林を越えていくと、街道は奈良市中町の砂茶屋交差点に差し掛かる。昔の茶屋はあとかたもないが、交差点やバス停、橋の名称に採用されおり、これも街道の記憶遺産だ。「砂」を冠しているところから、近くを流れる富雄川の川砂と何か関係があるのだろうか。
 奈良県が保有する明治九年(一八七六年)の文書には、「砂茶屋郵便局」という記載が残り、古くからなじみの地名なのであろう。付近には「座り地蔵」という珍しい地蔵さんが祭られている。
 その砂茶屋交差点から二百メートルほど東へ行くと、樹齢百八十年のクロマツが街道沿いの民家に生息し、堂々たる枝ぶりである。天保年間から旅人の往来を見つめてきたというわけだ。樹高は十六メートルもあり、市の保存樹に指定されている。ここのご主人は伊勢参りの「五人衆」の一人。街道のクロマツのもとに参集して伊勢神宮を目指すという人々の姿は、いかにもさまになる。
 この樹木は、隣市・大和郡山の「市の木」でもある。昔の武士は常磐木を尊んだというから、クロマツは城下町らしいシンボルだ。実はこの暗越奈良街道、阪奈の四つの市を通過することで知られるが、ほんの少しだけ大和郡山市をかすめて通っている。生駒市小瀬町と奈良市中町の間の四百メートルほどで、弘法大師堂のある静寂な界わい。しばらく歩くと、郡山藩主が休息したという江戸期の建物「追分本陣村井家」も残り、街道百景の展示では安田修二さんが写真を、杉山三記雄さんがスケッチを寄せている。
 大和郡山の市民グループが昨年、「郡山百景」の展示に取り組んだが、趣ある古い建物などに交じって、「金魚卸売りセンター」の写真が選に入っていた。赤く染まった金魚の水槽に仲買人らが目を凝らして品評するようすは、まさに産業景観。金魚のまち郡山らしい一枚が百景を飾る。
 こうした視点をもてば、まちなかの産業景観は色々と発掘できそうである。景観動物の代表格である奈良公園の鹿は、鹿せんべいの製造や販売があってこそ守られている。また、街道とは遠く離れてはいるが、吉野の杉箸製作の乾燥風景などは路上で木の花が咲いたような光景。そうめんや手すき和紙の天日干しも、奈良の産業景観と言える。
 街道筋の大阪市深江で受け継がれている菅笠づくりも、いにしえの地場産業をしのぶ魅力ある地域資源だ。篤志家の手で本年は資料館もオープン。大和の古代氏族・笠縫氏ゆかりの地でもある。「笠縫」という行政地名はないけれど、田原本町を走る近鉄橿原線の車内アナウンスが「かさぬい」と告げる。それが旅客鉄道の妙味。当地と深江を結ぶ新しいまちおこしが生まれるかもしれない。

■街道と河川の十字路 

 歩行距離にして四十キロ近い道のりの暗越奈良街道。その道中は、いくつかの河川を仰ぎ見て橋を渡る。昔の旅人はここで一息ついて、物思いにふけったりもしただろう。現代の私たちとて同じである。
 古代水運の役割を果たし、あるいは万葉集に詠われるなどして、街道筋の川の物語は奥深い。街道の起点である高麗橋に一番近いのが平野川。そしてシルクロードの終着点に近づくころには、春日山原始林に端を発する佐保川をまたぐ。そこに行きつくまでには、玉串川、恩智川、竜田川、富雄川、秋篠川などのいわれのある川を越えていく。
 まさに暗越奈良街道は河川の十字路。もはや存在しない旧大和川の記憶も刻まれ、街道を個性的なものにしている。
 奈良町にも昔は率川(いさかわ)のせせらぎがあった。今は暗渠であり、「絵屋橋」という欄干が往時をしのばせる。この辺りの話は、元林院町の食事処まんぎょく当主の絹谷眞康さんがくわしい。この橋のたもとに芸妓が映る貴重な写真を所蔵しておられる。
 大阪市東成区の街道付近には、昔、水路に降りていくときに使われた石段が残る。ここも暗渠になったが、川に降りる石段は、生活と河川が密接な関係にあったころの記憶である。
 東大阪市を流れる長瀬川も、小川のようでいて実に色々な物語をもっている。「まち・むら文化研究会」代表の杉山三記雄さんは「昭和30年代のころまで、地域の人々はここで障子の桟を洗っていた」と話す。戦前は天満と結ばれた運河であり、舳先の尖った剣先船が水路を所狭しと行き交い、綿花の肥料や米、野菜などを運んだという。川面に目をやれば、一匹の大きなコイが流れに逆らうかのように懸命に泳ぐ姿が見られた。都市で見る魚影はいいものである。
 市街地の河川として面白いのが、東成区の平野川分水路だ。新道橋の欄干の一部に、ゆったりとした腰掛けをしつらえて施工しており、通行人は橋の真ん中で悠々と一休み。昭和六十一年の完工で、人間本位の土木工事という感じ。ここで花火を見るもよし、缶ビールを飲むもよし。何か行事を仕掛けてみたくなる橋である。
 同分水路の堤防には、子どもたちの絵を飾っており、直線の河川といえども本当に工夫次第だ。それに奈良市の秋篠川になると、直線である現在の姿こそ平城京造営の名残り。人工河川むきだしのところも、古代都市建設の記憶を伝えるので、これも一つの「奈良らしさ」かもしれない。人によっては、多自然型の蛇行の方が薬師寺の塔の眺望に適うというが、何もかも絵葉書のようにいくわけではない。
 その秋篠川で本年九月、舟運復活の社会実験として、舟下りイベントが行われた。平城京の時代、「西の堀川」と呼ばれた同河川。遷都千三百年祭の一環として、県、市、遷都祭実行委、大和川市民ネットワークが取り組んだ。
 これこそが生きた河川景観である。私は橋の上から見学して撮影したが、まるで水郷めぐりのような写真を撮ることができた。近鉄西大寺駅近くの市街地を流れる河川とは思えぬ長閑さ。秋篠川は、水質の浄化策が急がれているが、川沿いに自転車道が整備されていることは強み。どの河川に限らず、人々が水辺に近づくことが再生へのステップである。
 水遊び、釣り、カヌー、鵜飼、屋形船の宴会。遊んでいる当人が面白いだけでなく、関連産業の発展にもつながるし、眺めている方も何だか楽しい。近鉄布施駅の近くには、東大阪市内の池で育ったフナの洗いを味わえる店があり、こちらは食感で楽しむ水辺ということになる。
 災害に強く、そして風情ある河川づくりは、現代人に課せられた宿題だ。いかにも二律背反しがちな「防災と景観」の両立をめぐり、街道沿いのいくつかの橋を渡るほどに色々なヒントが浮かんでくる。

■多元文化の回廊を歩く

 まちは、それ自体は何かを語るわけではないが、おのずと醸し出されるものがある。祖父母の世代、そしてもっと遠い、江戸時代の人々が生活したにおいのような置きみやげ。
 大阪と奈良のまちづくり団体や市民有志らが〈街道〉という縁で集うようになり、三年が過ぎた。「暗越奈良街道クラブ」と名付け、雑踏に埋もれかけていた古い建築物や面白い話、芸道の記憶遺産などを掘り起こしている。
 東成区の赤れんが倉庫の魅力を語り継ぐメンバーもいる。昭和の初め、当地で隆盛を誇ったセルロイド産業の名残り。引火性が高い素材なので、防火に優れたれんが造りが採用されたというわけだ。哀愁を帯びた古い建物の影から、セルロイドのキューピーさんがそっと顔を出しそうだ。
 同区内の今里西之口公園の片隅に、ひっそりとたたずむ古ぼけた石造りの鳥像を「謎のコンドル」と命名し、まち歩きのスポットに仕立てたのも街道クラブの仕掛け。昭和十一年ごろ、工場か何かの敷地に建立されたというが、後に公有地となり、公園が造成されてからも、コンドルは撤去されなかった。
 今日、五十年を長らえた建物は、国の有形登録文化財の候補になる。コンドルはそれよりもっと古い時代のもの。だれが、一体何のためにこんな鳥像を残したのか、まったく不明で、それゆえ「謎のコンドル」なのであるが、由緒なき、面白文化財といえる。
 路上には、意味もなく愉快なものが転がっている。当地の絵画教師・瀧本永子さんは、ある路肩のコンクリート片がチーズケーキをかたどった石の彫刻に見えることを発見。何かの土木工事の置きみやげであろうか。瀧本さんは、その柔らかな感性で路上のあちこちを見つめ、子犬がひっくり返ってだだをこねているような石、大きくて甘そうなおはぎそっくりのコンクリート片などを次々と写真に収めている。
 同じ街道でも奈良側にくると、景観にまつわる事情はがらりと変わってくる。前述した「街道百景」では、昔なつかしい名画の看板を掲げた大阪市内の居酒屋が登場したが、サイズと色調によっては、奈良町では条例違反の屋外広告物になる。またそのようなルールを設けない限り、町家が連続する美観というものは保てず、路上のさまざまな規制は市民の理解を得られている。
 世界遺産都市の奈良市は、古代の文化財を守ることに大きな使命があり、それだけに近代化遺産や昭和の遺産が消えてゆくスピードは速いようにも思う。実はそれらがまちの名脇役であり、語り継ぎ、残していくことによって、古代遺産の真の価値を高めていくのではないだろうか。同様に、街道沿いに点在する田畑やため池を守る主張を私は愚直に続けていきたいと思う。
 朽ちかけた近代の遺産には、内に秘めた個性が宿る。大阪の人々はこういうものの価値を見つけ、まちづくりに生かすことに長けているが、裏返せば、大空襲に見舞われ、戦後の発展の陰で多くのものを失いすぎたのだろう。
 暗越奈良街道クラブが発足して以来、ずっとご助言を頂いている大阪商業大学教授の初谷勇さんは、街道沿いに果樹や野菜などの植物をみんなで育て、通行人が自由に収穫できる構想を温めている。立ち止りたくなる草木の輝き、旅人ののどの渇きをいやす甘酸っぱい果実が鈴なりになっている光景を私は想像する。大阪と奈良という、違い合う多元文化の回廊にあって、協働の菜園づくりで都市のオアシスを創造するのは楽しそうだ。

(暗越奈良街道クラブ会員、ジャーナリスト)


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