まちづくりは肩書で堕落する

浅野詠子

 「何もないまち」−。十年ほど前は、にべもなく住民がこう評していたという大阪市東成区。ところがこのところ、まちづくりの動きに目が離せない。五代目笑福亭松鶴ゆかりの楽語荘跡地をはじめ、芸道の歴史的資源がいくつも掘り起こされて顕彰碑もお目見え。商店街では空き店舗を生かし、お年寄りが気軽に立ち寄れて困り事の相談ができる場がつくられた。そうこうしているうちに、菅笠の原料になる菅田が青々と復活し、往時の笠産業の息吹を伝える資料館が民間人の手で堂々のオープン。
 キーパーソンを挙げればきりはないが、土地や建物を提供した篤志家、愛郷心いっぱいの医師、区役所の協働事業担当の行政マン、まちの技術者、研究者、元某市役所幹部、絵本作家…と色々浮かんでくる。
 あれよあれよという間に、面白いまちに仕立てていった人物の中に、遊び心旺盛な一人の技術者Tさん氏がいた。いた、と過去形で書いたのは、Tさんはこの夏、中国地方の大学に赴任することになり、しばし大阪を離れるので、今ここに歓送の辞を試みようというわけだ。
 雑踏に埋もれかけていた今里の赤れんが倉庫を掘り起こし、建物のありかを教えてくれたTさん。これは昭和の初め、当地で隆盛を誇ったセルロイド産業の記憶であった。引火性が高い素材なので、防火に優れたれんが造りを採用したのだという。れんがを用いたのは合理的な因果関係によるものであるが、説明を聞いていくうちに陶然としてくる。これこそ地域の歴史を歩いて味わう醍醐味だから。哀愁を帯びた古い建物の影から、セルロイドのキューピーさんがそっと顔を出しそうだ。
 今里西之口公園の片隅にひっそりとたたずむ「謎のコンドル」を、まち歩きのスポットに祭り上げたのもTさんの仕掛け。それは公園に残置されている古ぼけた石造りの鳥像。Tさんによると、少なくとも昭和十一年ごろに工場か何かの敷地に建立されたものらしく、後にその辺りが公有地となり、公園が造成されたが、コンドルはなぜか撤去されなかった。さっそうと羽を広げた体の中央部には社章か何かのマークが刻まれていたようだが、消されている。だれが何のためにコンドルを残したのか、まったく不明であり、とぼけたおかしさがこみ上げてしまう。
 こういうものを見つけてはしゃいでいるTさんの姿は少年のようだったが、「謎のコンドル」をあえて公式のまち歩きガイドブックに入れた区役所も、なかなか粋なはからいである。
 昨夜はJR鶴橋駅前の「うをさ」でTさんの歓送会が開かれ、私ははなむけの言葉に「地域資源の発掘人と呼ぶに値します」と賛辞を送った。すると当人はすかさず、「いやいや、そういう名前をつけられると、まちづくりの堕落というのが始まるのですよ」と諭してくれた。
 なるほど。そういう○○認定とか、○○公認、というような名誉や肩書きというものが権威をもつようになると、まちづくりの目的と手段がいつのまにか逆になり、俗臭を帯びてくるということか。そうか、Tさんはまちをつくる名黒子なのだな。
 そういえば、肩書きが立派な人たちを集めたまちづくりのシンポジウムがたいして面白くないときがある。かといって、全員が黒子の匿名パネラーでは人が集まらないだろう。けれども、「東成のまちを磨きあげた人々」などのタイトルを掲げれば、たとえ覆面パネラーたちのシンポジウムでも、結構盛り上がるような気がする。聴衆の席からは本物の何かが見えてくるだろう。それはTさんの黒子精神のようなものではあるまいか。
 まちは、それ自体は何かをしゃべるわけではないが、おのずと醸し出されるものがある。祖父母の世代、そしてもっと遠い、江戸の人々が生活した臭いのような置きみやげ。何かを自慢することもなく、御説を並べ立てるでもなく去っていった人々。生活の営みの結晶のようなカケラが受け継がれていって、古いまちの心をつくってきたのであろう。
 食器でいえば、作者名こそわからぬが確かな質感のある民芸のようなまち。すり減った路上のものたちが放つ渋くやわらかな光りに導かれ、東成の夢路を歩こう。

(2010年8月 あさの・えいこ/フリージャーナリスト)

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