本田靖春著『村が消えた−むつ小川原 農民と国家』を読む
          

浅野 詠子(フリージャーナリスト) 


 1970年代の下北半島。列島改造ブームに乗った国家プロジェクト「新全総」の巨大開発の命を受け、農民の土地を買いあさっていく公社の職員が登場する。国の下請け的な業務を言われるがままに、粛々とこなす職員像が浮かぶ。公社とは、71年に発足した財団法人青森県むつ小川原開発公社をいう。今日、土地開発公社という自治体の子会社が、とてもつない不良資産をかかえるはめになったが、地方公社の成り立ちは、時にはこんな姿をしていたのだろうかと思いつつ読み進めた。
 もっとも、ノンフィクション作品としての本書の主題はさらに大きいものだ。「むつ小川原 農民と国家」と書きあらわされたサブタイトルに滲むように、農業を否定する国策の、それこそ巨大なブルトーザーの下敷きになって放り投げだされていく村人の姿をありありと描いている。綿密な事実の積み重ねによって、国家とは何なのかを読み手に突きつけた。
 作品は1980年、潮出版から刊行されたが、その五年後、私が奈良県内の地方紙に入社した年に文庫版化(講談社文庫)された第一刷のものが拙宅の書棚にある。当時、新聞記者であれば著者の名を知らぬ者はいない。たぶん文章修行のようなつもりで買ったものの中断してしまい、長らく眠らせていたのだが、このたび退社したのを機に、一気に読んだ。
 戦前から戦後にかけて、国策に翻弄される農民の運命を本書はたどっていくが、記録された肉声の主はすこぶる多い。東北地方がひどい凶作に見舞われた1930年代は、餓死者まで出て娘の身売りが盛んに行われたことは、歴史の教科書にも出てくる有名な話だ。しかし著者は、かなりの行数をさいて、農村恐慌がもたらした生々しい惨状をこれでもか、これでもかと掘り起こしていく。人々は異様な臭いがする藁の団子をこしらえて飢えをしのごうとし、しまいには懐のシラミを口にする老人まであらわれる。
 旧満州へと若者を送り出す開拓団員の数が、東北はなぜ全国一だったのか、重要な背景がそこにある。本書のもうひとつの舞台である六ケ所村の場合も、国策と符号して開拓団の労働力を供給していく。やがて敗戦まぎわの混乱で関東軍に打ち捨てられ、青年たちが非業の死を遂げる。あるいは「満妾」と呼ばれる中国人妻になり、幼子と命をつないでいく若い女たち。生と死の境を生きる地獄絵は、執念の聞き取り取材によって立ちあらわれる。相手が言葉を飲み込んでしまい、あとは涙をあふれさせるだけという調査不能な事態も、当然のことながら起こるのであった。
 著者はいう。「満州開拓者に、帝国主義的拡張の一翼を担った侵略者としての側面をどうしても否定できない。しかし、国内的に見れば、彼らは資本主義の構造矛盾を背負わされて、満州へと駆り立てられた、底辺の人々であった。彼らは、ソ連参戦と同時に戦車の轍に蹂躙され、中国の民衆に報復を受けて、その罪を自身もしくは肉親の血で贖った」。底辺へと追いやられていく人々。これはもう一個の人間ではなくて、植物並みの「民草」なのだと著者は思い知る。
 敗戦後に命からがら帰国を果たした六ケ所村出身の人々は、村内のはずれに開拓地を与えられ、粉骨砕身の思いで農地を切り開いていく。「実際、よく働いたもんだ。あれだけ働いたの、そういねえんでねえだべか。何しろ、おら独り。家に帰ったところで、だれもいなかったしなあ」(本書)。だが、場当たり的な国や県の農業政策に何度も煮え湯を飲まされた末に、臨海コンビナートの巨大開発プロジェクトが浮上して立ち退きを迫られてしまう。旧満州でなめた辛酸が昨日のことのように骨の髄までしみ込んでいる農民たちは、こんどは札束で横面を張られる日がやって来た。
 抑制のきいたわかりやすい文章。臨場感あふれる事実の迫力。著者・本田靖春のジャーナリスト魂に、幾度となく触れることができた。
 その冷静な筆により、当事者の農民にとっては少し酷な描写も散々出てくる。開発をめぐり、寝返ってしまった「反対派」の村議たちのずるさ。土地買収のために用意された札束の実弾が乱れ飛び、享楽に溺れる地権者たちの醜さ。開発地に続々と建っていく派手な新築住宅。道端のぬかるみに入り込んだ車をあっさりと棄ててしまい、すぐさま新車のカタログを取り寄せる退廃ぶり。それでも著者は、土地成金に変じた農民たちの豪勢な使いっぷりを、ばかにして見てはいない。それどころか広い視野をもって、こう分析する。「都市近郊の農家のあいだに広まった風潮が、ここにも及んだのだといってしまえば、それだけのことであるのだが」
 なるほど、本書が刊行されて以後、数年後にやってくるバブル景気のときには、こんな光景が日本中の至るところにまん延していたはずである。著者が農民に投げかけた次の言葉は、どのような職に就く者であれ、何十年を経ても現代人の警句となろう。
 「金銭を越える価値を見出せずにいる人たちに、官僚と財界の結合体は何をすればよいのか初めから見通していた」。確かに、開発の正確な情報を住民に隠していた国や県の卑怯なやり方は、厳しい批判に値するものの、主権者としてのはっきりとした意思を貫く住民像は、長編の本書のどこを探しても哀しいかな、見当たらない。そして以下の厳しい戒めが導きだされる。「自分を守ろうとしないものは、だれも守らない」
 かつては七十九戸が入植した六ケ所村の上弥栄地区は、跡形もなくなり、たった一人になった残留者を、著者が取材するくだりは圧巻である。老人は黙々と雪かきをしている。
 旧小学校のあたりに立った著者は、かつての営みの跡をいちめんに覆い隠している積雪の光景を、万感の思いで描写したことだろう。
 「赤坂、新橋で何億という交際費を使う政治がある反面、こういう貧乏村がある。交付税をせめて三倍にしてくれれば、辺地だって何とかやれるんですがねえ」。こんな声も拾っている。
 限界集落という新語が話題をさらった今日、村の再生というものを一から考えている人にぜひ読んでほしい一冊である。         

(2010年5月 あさの・えいこ/分権サロン主宰)  


 

追記
 六ケ所村の2008年度の財政力指数は1.78。将来負担比率は無し。だから、村は消えたどころか、財政国の健全化指標で見る限り、健在ということになる。自主財源のうち固定資産税が85.7%を占めており、これがすなわち、村が原子燃料サイクル施設の立地協力要請を受け入れた25年前の決定に起因するのだ。本田靖春著『村が消えた』が刊行されから5年後のことであった。
 核燃料サイクル事業が始まり、ふってわいた公共事業の村になり、その“土建村”の素顔は河北新報の連載「検証 地域から問う公共事業」(1998年)に描かれている。連載は『虚像累々』(日本評論社)という本にもなった。
 村議会の半数を建設業者が占めるという異常さで、村長交代劇を仕掛ける建設会社の会長も登場する。「音響は国内有数」と職員が胸を張る文化ホールもお目見えし、デラックスな箱モノが次々と軒を並べた。
 中学生のころ、父親とともに村南部の丘陵地に入植したという開拓者の酪農家は、河北の記者の取材を受けてこんなふうにもらしている。「国家的プロジェクトを受け入れるだけの村だった。自らがどんな方向を目指すのか。村民全体の将来像は見えなかった」と。この下りを読むと、本田靖春がかつて描いた「国家と農民」の世界と重なり、感慨深いものがある。
 村が消えた−。本田がいう村とは、単に行政の事務区分などの範囲を指すものではなく、地域の産業が内発的に発展し、独自の文化を育み、住民が豊かさを実感できるような共同体をいうのだと私は思う。そして今日、その理想に遠く及ばぬ苦しい町村が多く、それどころか、限界集落と呼ばれるほどの崖っぷちに追いやられた地域もあらわれた。それゆえ読みたい一冊として挙げたのである。
                

=2010年、夏至の奈良より=

 

ホームページのトップに戻る