わがまちの近代化遺産



                                      

浅野 詠子         
                               2008年5月28日       
(主催 コミュニティ・エンパワーメント東大阪) 



 先日、河内の郷土文化サークルセンター理事の杉山三記雄氏より、「帝国キネマ」を核とした東大阪市の新しい観光パンフレットを頂きました。驚いたことに、もはや存在しない"帝キネ"の建物が核になっているのです。このような観光案内は奈良で見たことがありません。東洋のハリウッドといわれた長瀬撮影所は昭和5年まで、確かに存在していました。あえて名づければ、「記憶遺産」とか「記憶文化財」でしょうか。失われた文化施設を誇りに、ないものがある、面白い観光パンフレットです。
 近鉄の小阪駅の界わいを歩きますと、大坂の陣などの興味深い史跡があり、司馬遼太郎がなぜここに終生の居を構えたか、その秘密が少し分ったような気分になります。ある人に聞けば、司馬さんは奈良市の近鉄学園前駅の界わいも住まいの候補として検討していたようですね。
 奈良を選ばなくてよかったのではないかという気がします。なぜなら、本日のテーマの近代化遺産の話にもつながるのですが、実は奈良市では、志賀直哉の旧居でさえ取り壊しの危機にありました。いま、司馬さんのお住まいが立派な記念館として、東大阪の地域資源として、とても大切にされていることとは対照的です。
 私たちの地域は、当然のことながら古代の文化財を最優先に守る使命がありますが、それだけに、他県よりも近代化遺産や近代和風の建物が壊れていくスピードが速いようにも感じます。
 失われゆくもの…、それらは世界遺産の名脇役だと思うのですが。
 志賀邸は昭和4年建築の数奇屋造の建物で、奈良市内の民家としては近代和風の建物の代表格といってもよい。往時は白樺派の作家たちと洋画家が交流して高畑サロンとも呼ばれていました。志賀没後は厚生年金の寮としてしばらく使われた後、建物を取り壊してしまえということなった。県の風致審議会も「やむなし」との結論でした。
 しかし、お隣に住んでいる画家の中村一雄氏が憤慨し、保全運動に乗り出しまして、3万人の署名が集まりました。新聞数紙も好意的に取り上げ、最終的には学校法人の奈良学園が手を挙げて下さり、買収にこぎつけます。現在は同法人が経営する奈良文化女子短期大学のセミナーハウスとして活用されています。
 この保全運動から今年はちょうど30年。この秋には記念のシンポジウムと音楽会が計画され、やはり近代化遺産と呼べる奈良女子大学の佐保会館で開かれることになりました。実は運動に奔走した中村氏は、志賀と交流のあった画家・足立源一郎が大正時代に建てた洋館を継承し、往時と同じアトリエで制作をされている方です。志賀邸と旧足立邸。奈良市高畑町にたたずむこの二つの建物を中心に、この界わいに伝わる文化の香りを後世に伝えていこうと昨年は「白樺サロン」というグループが発足しました。私も発起人の末席におります。
 秋のシンポジウムも、この会の主催ですが、その成否は、若い方がどれだけやって来るかにかかっているでしょう。神戸市在住の建築学の大学教授が中心になり、熱心に取り組んでいますが、若者をどう焚きつけてくださるか注目しています。景観やまちづくりというものは、次の世代が一体どのような住まいを志向するのかにも大きくかかわってきますね。
 この春には「白樺サロン」の会報も創刊されました。瓦屋根が原則の古都奈良の風致地区にあって、南仏・プロバンス風の<美しい例外>として、私は旧足立邸に着眼して執筆し、建物が美しく年老いていく条件とは何か、探ってみました。
 近代の遺産は、使いこなされた美しさが魅力です。近代化遺産という用語はとかく、産業遺産などに限定してとらえられるので、まちづくりの観点からは近代歴史遺産ていった用語の方がよいかもしれません。最近ではヘリテージングなどと称して、明治・大正・昭和の遺産を発見する市民活動も次第に増えていることでしょう。
 多くは建築史の断片ですが、疎水という観点から奈良県では、「吉野川分水」なども取り上げることができます。
 私が勤務する奈良新聞の文化面では今、「わがまちの近代化遺産」というタイトルで連載に取り組んでいます。担当デスクは「このシリーズをまずは100回続けたい」と言います。それは賛成で、大きな理想で始めるよりもまず記者が現場を歩いて、奈良県内の近代化遺産を100取り上げる。100回には特別な意味はないが、100回取り組めば、何か面白い発想が沸き上るかもしれない。あるいは特段の感慨などないかもしれないが、資料として残ることがとにかくうれしいです。
 この地味な連載が50回まで来ました。華やかな世界遺産のはざまにあって、消えゆくものも多いかもしれない。「なつかしい」という人間の感情は、「残したい」という思いとどこかでしっかりとつながっている。そんな視点を奈良市の学芸員が書いていたように思います。
 なつかしいと感じるのも束の間、いつのまにか消えてしまうのが奈良の近代化遺産ではないでしょうか。この連載記事を並べて眺めていると、少し切ないような気分になります。
 これらは、近年とくに見直されている江戸時代のまちなみなどと敵対するものでは断じてありません。むしろ、本県を代表する町家景観の奈良町周辺においても、点在する近代の遺産は、まちの美観に活力を与えるものです。連綿と町家が続いているなかのアクセントですね。
 奈良町の保全運動は、バサラ祭や燈花会など、奈良市内で成功したまちおこしと同様に、「民間発」という素晴らしい特徴あります。いずれも、市民団体が取り組んだ価値に行政が気づき、公的な支援に乗り出すという理想的な図式があると思います。
 とりわけ面白いのは、昔はあったが今の行政町名にはない「ならまち」という呼び名に、市民が愛着をもって定着しているということです。かつては、この地域のみなさん、自分たちのまちを「旧市内」って呼んでいたのです。まちおこしが成功してネームバリューが出てまいりますと、みな誇りを持って「ならまち」と名乗りますね。さらに最近では「ならまち薬局」とか「ならまち不動産」とか、企業が冠に用いるときに、まちづくりの熟成を見るわけです。
 これまでの奈良市内のまちづくりは、旧町名を捨ててきた側面があります。例えば、菅原町という地名の由来は続日本紀に出てきて、天神様の菅原道真とのゆかりが深いのですが、その一部は学園南何丁目かになっている。二名の一部は学園緑ケ丘に。住民が町名変更の運動をして、市の住居審議会がそのつど了承してきました。六条というのも平城京の坊条制ゆかりの地名ですが、学園前六条にどと宅地が売られ、ちょっと苦笑しました。私は保守的なんですね、きっと。
 いずれにしても奈良町は良いところ。でも、もしも町家至上主義みたいになってしまうとしたら、少し息苦しかろうと思います。町家と同時に、奈良町の近代の遺産も温めたいものです。そもそも奈良町は、近代化遺産と連結しています。なぜなら、周囲にある奈良公園は明治13年にできた都市公園であり、万人が享受し得る「公園」になったのは近代の所産ではないでしょうか。もちろん、廃仏毀釈などにより興福寺の境内が著しく狭められていく過程には問題があるのですが、江戸の遺産のまちなみが、そこだけが博物館のように存在していても何か物足りないものです。奈良町を守っている多くのもの、そのひとつに奈良公園の緑もあるでしょう。
 奈良市の景観形成地区で、町家風に新築をすると市の助成金が出るが、百年経過した近代の建物の保全は公的な支援が乏しいというのが現実ですね。大正時代に完工したレンガ造りの旧水道局計量器室なども味わい深いものですが、いつ取り壊されるかしれません。この建物は小紙の「わがまちの近代化遺産」のシリーズの土木編において「大正の都市整備の記憶」として取り上げ、本年の3月11日付で掲載しました。
 この建物は「奈良きたまち」と呼ばれる京街道の界わいにあります。街道には、鎌倉時代の般若寺楼門、そして江戸時代の商家の町家があり、この大正の建物も末長く親しんでもらえたらと願います。
 日ごろは、文化財行政のお墨付きなどない風情ある古い建物や土木遺産を探訪することは楽しいものですが、保全ということになると難題であり、市民みんなの英知で取り組みたいものです。静かなる個性、あるいは内に秘めた個性のような魅力が、朽ちていく近代の遺産にはあります。
                                 

=スピーチに加筆・修正した=




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