私たちはなぜ納税の義務を負うのか


 

浅野 詠子   
 


  ■はじめに
 
  平和や人権の運動家らが発起人となり、奈良市内で毎月開かれている「憲法が語られる会」。その例会で、私も話題を提供する機会が巡ってきた。2007年6月のことである。発起人の一人の田川和幸弁護士が、地方自治や地方税に関する私の論考に関心を寄せて下さり、「憲法が納税の義務を定めている意義を語ってほしい」と要請されたのだ。税法などは門外漢の私であるが、日ごろの率直な思いを投げかけた。以下は、当日に話した主な内容に加筆し、伝えたことをまとめた。
 
 
  ■なぜ納税の義務を負うのか
 
  言うまでもなく、日本国憲法は30条で納税の義務を定めている。しかし私たちはなぜ、何のために納税しなければならないのか。日ごろあまり表に出ない論議だ。そんな根本課題について私は、税法学者・三木義一氏の著書『現代税法と人権』を通して学んだ。10年ほど前のことだが、地方税の国家賠償訴訟の原告団長が私と同じ奈良市であり、この人の紹介で三木氏の貴重な業績を知ったのだ。
  「日本国憲法下の納税の義務は、国家が国民に対し行う人権保障その他サービスの対価である」と三木氏は位置づける。
  歴史的には、封建制が終わって近代を迎えた欧州では、「租税利益説」という理論が展開していく。市民は、生命の享受や財産権の保障などの「利益」の対価としての税を納める意義を見出すようになる。しかし、その後に資本主義が発達していくと、大型間接税が導入されるようになり、国家からたいした利益を受けていない低所得者層の人々が租税の重要な担い手になってくる。この逆進性により、「租税利益説」は根拠を失っていく。一方、議会制民主主義の発展により有権者は、低所得者層の立場を代弁できるような議員を送り出すことができ、「租税利益説」は再び注目されるようになったという。そうした大きな流れを私たちは本書で学ぶことができる。
  いま多くの市民は―そして自治体の有力議員も―議員定数を削減を志向するが、納税者の利益とどのように連動するのか、そこを考える必要がある。
  本書では、何人かのドイツ人キーパーソンが登場する。一人は、議会制民主主義の発展を重視し、議会の過半数による「単純多数決」で税の要件を定めることを危惧したヴィクゼル。租税承認を議決する際には、少数党が拒否権を行使する手続きが必要であると、この学者は説いた。もう一人は、国家と私人の対等性、そして納税者の権利救済手続きを重視して租税債務論を展開したアルベルト・ヘンゼル。彼は血統を理由にナチスドイツによって大学を追われ、38歳の若さでイタリアで客死した。
  ユニークな裁判官も登場する。「良心の自由」を根拠とする納税拒否の権利について、1984年から論文や立法案を書いているフランクフルト行政裁判所裁判官のティーデマンである。もし仮に、国民が軍事費などの納税を拒否した場合、そうした納税拒否の行動が当人の財産上の利益をもたらしてはならず、拒否額に5%を加算した額を公益基金に寄付することを認める法律案をティーデマンは提起している。「良心の自由は、多数意見に対する疑問というものを保障するものであり、民主主義の発展に不可欠である」と問うている。三木氏の著書はこのように、随所に示唆に富む。
 
 
  ■日本の社会は税に関する市民運動がなぜ乏しいのか
 
  ここからは私の意見を中心に話を進める。税は日ごろ、「取られるもの」という意識が根強く、市民から疎まれ嫌われる存在であると私は思う。「過去を見れば未来が分かる」と言ったのはアナトール・フランスであるが、これからの税のあり方を考えるためには、過去の日本人が税に対し抱いてきた観念を振り返ることが大切だと思う。
  このたびの「憲法が語られる会」のレジュメには、「無償の奉仕」をテーマにした山本周五郎の文学作品や幸田露伴が提起した従量税、鼠小僧の義賊伝説などを挙げてみた。時間の都合で割愛したが、実際の窃盗事件とは異なる鼠小僧の伝奇には、庶民が好む義賊に脚色されたところに特色があり、そうした精神文化を通して累進課税などとの接点を探れないものかと私は思った。
  近年では、寄付文化に着目して自治の振興を図ろうとする動きもある。寄付金を寄せた人々がその使途を指定できるユニークな制度を創設した自治体もある。税というものを市民が身近に考える機会につながるであろう。千葉県市川市のように、市民税の1%を市民推薦のNPO活動の助成に充てるという自治体もある。この関西を見回すと、通天閣や長浜城は商店主や市民らの寄付で建築されたと聞く。長浜のまちおこしに尽くした黒壁の社長の話しを以前に聞いたとき、「身銭を切る」ような精神が伝わってきた。
  これからのまちづくりの財源として、寄付文化、寄付と連動した税制の進展に多いに期待したい。
  その上で、とかく目には見えにくい他人の不幸というものを考えると、福祉の財源はやはり所得税や法人税を中心にした累進課税のやり方が適していると思う。
  行政はなぜ、半ば強制的に人々の財産の一部から税を徴収できるのだろうか。
  徴税という権限行使の根拠をなすといわれる日本国憲法の条項は、幸福追求権(13条)や法の下の平等(14条)、すべての国民が健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を保障した生存権(25条)などを挙げることができる。そのための原資が税であり、憲法29条に財産権について、公共の福祉に適合するように法律で定めるとある。
  盗みに入った大名屋敷76軒、盗んだ大判小判3183両を窮民にまいた義賊を創作した人は、今日の税制をどう見るだろうか。
 
 
  ■税を元手にどのような社会をつくるか
 
  第二次大戦中の日本は、戦費の調達のために間接税の比率が高まった。敗戦直後はGHQの指令でシャウプ使節団が実情を視察し、直接税の中心主義や地方自治の独立財源を強化するよう勧告したことは周知の通りである。
  シャウプ勧告は、地方政府のサービスがもたらす作用のひとつに「人間の不幸を防止すること」を指摘する。
  印象深い言葉であり、税はそのための原資でもある。しかし、戦後60年を経ても日本国内で税への信頼はあまり高まっていない。現代の風潮は、税への不信とも相まって何でもかんでも民営化することが自治体の正義のように言われる。だが、住民の要望が高く、しかも効率が悪いことが宿命のような公共政策、例えば防災や救急の拡充などは、税で行うにふさわしい分野である。
  税は今、私たち市民の願いを反映して使われているのかどうか。そこが問題である。
  先日、私の勤務先に精神障害者の青年がやって来て自作の詩を置いていった。読めば、精神科の閉鎖病棟に入院していたころの体験をつぶさに投影しており、興味が沸いたので、青年が通う福祉作業所を訪ねてみた。施行された自立支援法により、この作業所に通うだけで一日何百円かの負担金が徴収されるとのことであった。「まるで自立阻害法ですね」と青年が語る。
  公共交通機関の本県のバス交通をめぐっては、身体と知的の障害には割り引きがあるのに、精神障害者には割り引きがないという。当事者の家族の方からそうした不満を聞いた。精神障害者に対する不正確なマイナスイメージが社会に蔓延しており、バス会社の側は当事者の乗車が促進されることを敬遠しているのでは…という見方もある。
  県外では、民間と公営の双方のバスが運行しているエリアがあるが、公営交通の方はほぼ100%、、精神障害者の割引を実現したようだ。公営交通の方は選挙で選ばれた長が経営の最終的な責任者であり、本音は分からないが、それ建前かもしれぬが、「平等」という原則がものを言うことになる。そこに公費が支出されれる意義があると思う。
  「世の中は官から民へのうねりだが、コミュニティーバスは民から官へのうねり」―。ある市役所に勤務する知人はそう見る。
  巨額の公費を投入して本県の道路は改良されてきたが、住民の足である路線バスの本数が減少するエリアが目立つようになった。道路は良くなっても交通弱者が排除されるのであれば、公共投資の意味が問われる。それゆえ、市町村の努力で運行している各地のコミュニティーバスに私は注目している。地元バス会社が培ってきたノウハウも生かされている。桜井市のコミュニティーバスは、明日香村の協力で村への乗り入れが実現しており、市・村の境界を越えた連携がユニークだ。
  北川正恭氏が三重県知事をしているとき、知事と面談を求めた米国の駐日大使特別補佐官が「真の問題は地方にあり、真の問題の解決の芽も地方にあり」と語ったという。近藤大博氏の論文(三重県発行『地域政策』に収録)に出てくる。
  地方への税源移譲が重要であること言うまでもない。
 
 
  ■徴税の手続きは民主的に行われているか
 
  国税局の任意の税務調査をめぐり、「納税者に対し事前に通知する制度が整っていない」という批判を、税の専門家から聞くことがある。裁判所の礼状もないのにいきなり、強制捜査まがいの家宅捜索をされ、プライバシーを侵害されたとして納税者側が提訴するケースもある。
  行政の税務調査の手続きにおいて、人権に根ざしたルールを設けることこそ、納税者の権利の拡充であるとが、わが国では、税金の無駄遣いを告発する際に「納税者の権利」という用語が好んで使われている。無駄をあばくのも大切だが、徴税の手続きにもっと関心を向けてほしい。そこに市民が無関心である要因としては、サラリーマンの源泉徴収制度と関係がありそうだ。
  地方税を概観すると、異議申し立ての制度などは課税庁に有利だな…と感じることがある。不服審査請求を審理する人が、役所のOBが任命されることは多々あり、中立性の確保が疑わしいケースがある。それでも
  市町村によっては早くから民間から優れた人材を任命しているところもある。国税の不服審判官は、民間からの登用は始まったばかりであると聞く。
  さて、私は奈良市民であるが、市税の累積滞納額というのは何十億円というからひどい数字だ。市民によっては納税意欲を阻害されると憤っている。分からないでもない。例えば、市税の柱である固定資産税は収入の多寡により税額が決まるのでなく、自分たちのマイホーム周辺の売買実例で評価され税額が決まるため、ひとたびリストラなどで収入が激減すると、雪だるま式に滞納額が増えていくような性格もある。また法人などの確信犯的な滞納も確かにある。
  「本物の病人と仮病をかぎ分けることが役人の資質だ」とある研究者に教えられた。生存・生業用の資産とサイドビジネス的に運用されている資産とは、課税のあり方にもっと明確に区切りをつけることも必要だ。収入が減り、固定資産税が払えなくなった高齢者の家屋を差し押さえすることは、生存権の観点で無理がある。死後に差し押さえることとし、その代わり、家族への相続はあきらめてもらうが、生存中は住み慣れた家で余生を送って頂くことはよいことだ。現行の小規模住宅特例だけでは、公平性の確保は十分ではない。
 
 
  ■税の不正な使途を監視するためには
 
  必要性の乏しい公共事業や役人同士の飲み食い、カラ出張やカラ残業など、税の浪費は各地で跡を絶たない。冒頭に紹介した三木義一氏の著作『現代税法と人権』には、憲法学者の小林直樹氏のこんな言葉を引いている。「不公平税制や乱脈な財政が行われるところでは、"何のために納税しなければならないのか"を絶えず問い直す必要がある」(『憲法講義』)。
  自治体は国に先駆け、行政文書の情報公開を模索して制度化し、自治法では監査制度や行政訴訟の道も保障されている。しかし国の場合は、憲法には90条で会計検査院の役割を規定してはいるものの、行政訴訟に匹敵するような法制度はまだなく、「公金検査請求・訴訟制度を創設しよう」という動きがある。
  会計検査院については、行政が不適正に支出した多額な公費を毎年指摘し、注目が集まる。しかし、かなり以前ではあるが、こんな残念な話も聞いた。ある国庫補助事業の担当者が使途について会計検査院に疑いを持たれ、東京の事務局まで呼び出された。事情聴取を受けた結果、疑いは晴れて「帰ってよい」ということになったが、往復の交通費はすべてこの人の負担。しかし次年度以降も国庫補助の恩恵にあずかろうとすれば、沈黙するしかなかったようだ。尋問を受けたときに、隣の部屋から、別の職員が机を叩いて高圧的な事情聴取をしているようすが漏れ聞こえてきたという。
  自治体の監査制度は、あまり熱が入っていない分、こうした行き過ぎた場面は起こらないとは思うが、納税者の立場になれば相当物足りず、役所寄りの遺憾な決定が多い。
  国もようやく行政文書の公開法を施行したが、防衛庁が開示請求をした人の勤務先や所属団体の情報を収集し記録していたという遺憾なことも起きている。公開制度の本旨が熟知されていない。
  ところで、税法の条文は、わざと難しく表記し、納税者の権利を遠ざけているのだと知人が指摘していた。そう言われても、国は返す言葉はないだろう。
  多くの地方議会に至っては、税の使途の監視を怠ったゆえ、外部監査の法定導入を招いたのだ。地方議会は、いうまでもなく住民の最終的な意思を議決や否決などの方法で下す機関だ。首長との二元代表制度における権力のチェックアンドバランスの上でも、議会は大切だ。私がこれまで、議員の違法な公共事業受注や議員関与の談合事案を積極的に報じてきたのも、議会改革への強い期待感の裏返しである。
 
 
  ■税はだれがどのように負担したらいいのか
 
  日本は格差社会が深刻化していると報告されている。累進課税が一挙に緩和されたことの影響が大きい。本日は、「税は何のためにあるのか」ということを提起したが、所得の少ない人や障害のある人が幸せに暮らせる平等社会を実現する原資であり、応能負担のことを忘れてはならないと思う。
  だが政府税調の流れはご存じの通り、累進性の緩和、法人税の引き下げ、所得税の課税最低限引き下げ、消費税の増税などを志向しているようだから、格差はますます広がっていく恐れがある。
  逆進性のある消費税は今後、経済のグローバル化に伴い、日本の基幹税として位置づける方向に拍車がかかるとされるが、わが国の場合、食品も宝石も税率が同じという「無差別一律課税」にも特徴がある。このままで良いということは決してない。
  さて、税と自治体をめぐる近年の動きとして注目されたものに、東京都の銀行税の提案があるが、「銀行の担税力」を重視した応能負担の観点で検証するのは興味深い。銀行側が都を訴えた裁判は、税法の均衡要件に欠けるとして都が敗訴したが、課税対象を資金量5兆円以上とした都のやり方について高裁判決は、中小事業者に配慮した政策的意義というものを肯定していた。
  では、この会場のみなさまに問いかけたいが、銀行を狙いうちにした都税が違法と批判され、産廃業者を狙いうちにした本県などの産廃税はなぜこぞって賛同されているか。是非は県民が主体的に判断して頂きたい。分権一括法後は全国のさまざまな自治体が法定外目的税を創設したが、私としては、東京都杉並区のレジ袋税の提案が印象に残る。有権者一人ひとりに直接の負担を求めた提案がいい。
  最後に、地方交付税はあくまで自治の本旨を実現させるための財源である。その上で、都市住民は水源地の森がもたらす恵みを忘れてはならないと思う。国は自治体の交付税を激減し、半ば強制的な市町村合併が進めるが、山村に人が住み森林資源の循環的活用を真剣に考えて格闘するからこそ、国土の保全は図られる。
 
              

(あさの えいこ)


                              
 

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