徳島県主催 男女共同参画講座(講演要旨)

「伝統文化や公共空間の<性別>を考える」


浅野詠子
2004年11月18日
会場 徳島東急イン

 2年前にも、徳島県の男女共同参画講座で女人禁制についてお話しております。わたしは日ごろは地方行革にまつわる記事を書くことが多く、女性学の専門家ではありません。にもかわらず、こうして再びお招き頂いたのは、わたし自身が職務中に女人禁制の現場に直面して伝統行事を取材できなかった経験を持ち、そこに注目してくださったのだと思います。
 それは1985年から5年間、新人記者として奈良県吉野郡の9ケ町村を担当していた時代に話はさかのぼります。国立公園における有名な山開き行事の場面で、私が女性という理由だけで取材ができなかったのです。行事の邪魔にならぬよう遠方から写真撮影することも許されません。これは、大相撲の競技が完全に終了した後の土俵において、女性という理由だけで大阪府の知事が賜杯を渡せず物議をかもしだしたことと、どこか関連していると思いませんか。
 1300年の伝統といわれる、この女人禁制の山域。吉野熊野国立公園の山上ケ岳(通称、大峰山)であり、この地を含む「紀伊山地の霊場と参詣道」はことし、世界遺産に登録されました。奈良県で関係する9町村はいずれも過疎地であり、喜ばしい出来事であります。これで紀伊半島の森林保全に弾みがつけばとも願います。女人禁制の伝統が覆る以上に、森林の荒廃をくいとめる方が難しいと感じることもあります。なぜなら、大峰山の女人禁制を止めようと、当事者の修験道寺院の僧りょらが1997年、自らの意志で決議していましたから。男性信徒の猛烈な抗議を受け、撤回され、「女人開放」の論議はいま、宙に浮いているような格好ですが、大峰山を取り巻く重要な歴史の一こまだったのではないでしょうか。
 大峰山は、修験道の根本道場という宗教の伝統とユネスコの世界遺産という大きな権威が結びついたことになります。だからといって、女人禁制の論議に気後れする必要はまったくなく、むしろ、世界遺産への登録により「公共性」はいっそう増したのだから、ますます、論議を深めていくことが大切でしょう。
 さて、昨年のことですが、奈良県内で行われた男女参画関連の行事に、大変、ユニークな講師がやってきました。心と身体の「性」が一致していないトランスジェンダーを名乗り出た初の国立大学教員、蔦森樹さんです。蔦森さんは、人間の胎児は性差なく誕生し、生育の過程で生殖器に違いが生じるにすぎないことに着目し、図解を示しながら、必要以上に男女を区別しがちな現代社会の矛盾に迫ります。お乳が三つある人もいれば、顔に口が二つついている人もいる。精巣と卵巣を同時に持って出生する人もいるといいます。程度の差こそあれ「すべてが正常」と蔦森さんは力を込めます。
 なぜわたしがいま、トランスジェンダーの話を引き合いに出したかといいますと、蔦森さんのような方がもし大峰山を登山しようとしたら、宗教者はどう判断するでしょうか。蔦森さんは女人禁制の山域において、男性ですか?、女性ですか?。その人間の基準は一体だれが決めるのでしょうか。いまようやく、性同一性障害という新しい人権問題にも光が当たり始めた。それゆえ、わたしは女人禁制の伝統に固執ことの問題を感じるのです。
 しかし、女人禁制問題の特徴は、他の女性問題と比べ、見えにくく、原因もつかみにくいものです。例えば、男女参画における重要な領域である保育や育児休業などの諸課題は、ある程度、公金を投入することで解決の道筋をつけることができる。しかし女人禁制の問題は「伝統だから」の一言で片付けられてしまうことが多い。神社の祭などで、女人禁制の慣習が残る地域はありますが、年に一度あるかないかの行事にわざわざ問題提起などして摩擦を起こす必要はないと考える女性は多いでしょうから、「伝統行事と男女参画」というテーマは大変、難しいですね。わたしが女人禁制の問題にこだわる理由は、性の違いを強調しすぎる社会は息苦しいという視点です。
 霊山にまつわる女人禁制の文献はかなり少ないと思われ、不明なことが多いです。女人禁制の起源については諸説があり、定説はないはずです。ある研究者の見方によれば、仏教の戒律から発生し、平安時代以降の「女性に対するけがれ感」と結びついたらしい。確かに、仏教の経典には、女性の地位をかなり低く描いているものがあることを女性学者は厳しく指摘していますね。女人禁制の伝統や慣習は、「男性中心社会」に都合よく作用し温存されてきたのではないでしょうか。
 大峰山に代表される女人禁制の山々を「歴史的ジェンダー」と呼んだ女性学者もおります。なるほど。私も思い当たることがあります。いま、会場のみなさまに世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」を紹介したパンフレットを見て頂いておりますが、大峯奥駆道の紹介文の中に「幾日もの間、早朝より深夜まで谷を渡り、崖をよじ登り、歩き続ける修験道の中でも、もっとも厳しい修行として有名」と書いてありますね。奈良県内では昔から、「大峰登山をして男性は一人前になる」といわれてきました。地域によっては元服や成人男子の証として、男子が険しい大峰登山に挑む慣行があったとも聞きます。ここには男性は強くて当たり前という前提があるでしょう。男性であっても、病者や障害者は参加できない伝統になります。排除されるのは、女性だけではないのです。
 さて、男性の側からも、「男らしさを押し付けられたくない」という意見が出ることがありますね。かつて京都新聞におられた中村さんという方が、「メンズ・リブ」という男性解放運動を起こして10年ほどになろうかと思います。かつて女性学は、「妻の呪縛」「母の呪縛」の正体を突き止めましたが、中村さんは早くから「男らしさの呪縛」に言及しています。ホットラインなども設けて、地域や職場、家庭などで男らしさを押し付けられた人からの相談にも応じていました。阪神大震災の発生から一年ほど経ったある日、子を亡くした男性から「『いつまで泣いているのだ』と家族から咎められている」という相談も来たそうです。男性は泣くことにも不自由であることがよく分かります。女人禁制問題はまさに「男性問題」でもあるのです。
 大峰山の話に戻しますが、女人禁制問題の論議が出ると、真顔で「お風呂も男女混浴でいいのか」といった的外れな反論をする人がいます。歌舞伎や宝塚、あるいは男子禁制の修道院の話などを持ち出して、女人禁制を擁護する人も少なくないでしょう。
もし仮に、国立公園の山中という公共性がきわめて高い空間において、大峰山と同様に、山頂から10キロ四方にわたり男子禁制の伝統が続いていたら、わたしはやはりこれも問題視したでしょう。たとえ高度な精神修養を行う聖地であっても、表面的な性の違いに強くこだわり、女性が男性を排除するとしたら疑問です。冒頭お話した、トランスジェンダーを名乗り出た教員の話を思い出してみてください。
 吉野熊野国立公園には現在、女性が肉眼で拝観できない重要文化財もあります。山上ケ岳山頂の大峰山寺であります。1986年の「昭和大修理」のときには、資材運搬中のヘリコプターが墜落し、パイロットと助手が死亡するという痛ましい事故が起きていますが、女性の遺族は事故現場に花を供えることも許されなかった。人権問題にくわしい木津謙さんという方の著書で知った話です。せめてヘリコプターの上空から事故現場に花を捧げたいと遺族は申し出ましたが、護持院の側はそれも認めなかった。それほど大峰山の女人禁制はかたくななものであります。
 この地域はさぞ強力な「男性中心社会」だったと思います。なぜなら、半世紀ほど前には、女人禁制の霊山の登山口に7、8件の遊郭がありました。公娼制度と関係しますが、違法なものは1992年、県警の摘発を受けるまで存続しています。女性を遠ざけて高度な精神的修行をする霊山と女性の肉体を売買するという両極端のものが隣接し、地域で温存されていた。この事実を冷静に考察し、公費で村史に加えたらよいのではと思います。
 本日は、山上ケ岳(大峰山)の登山口にある「女人結界門」の写真もお持ちしました。ここから先は女性は入ってはいけないと戒めている門です。しかし、修験道の信仰を持たない人にとっては、国立公園にある「屋外広告物」との見方もできます。
 公共空間における表現の問題についてはことし、札幌市営地下鉄における週刊誌の中吊り広告をめぐり、興味深い出来事がありました。イラク戦争で人質になった道民のうち、高校生の家族のプライバシーを暴露する週刊誌の見出しが、市の交通局の基準に抵触とするとして、問題の見出し部分を目隠しして地下鉄内で掲示されたという出来事です。
 なぜこの市の措置に注目したかといいますと、もし市の判断に対し、「表現の自由」を侵害するとして不満があれば、市民は市長をリコールしたらよいし、「個人情報の保護」の観点などから評価したければ、次の選挙で応援したらいい。力の源泉はすべて住民の側にある自治体の行動ゆえ、札幌市交通局の判断にわたしは注目したのです。
 公共空間における女人禁制の伝統のあり方も、地域で決めることであると私は思います。もし仮に「世界遺産の登山道で女性を排除してはならない」という通達が、霞ヶ関のどこかの中央官庁から奈良県に舞いこんで来たら、私は非常に警戒するでしょう。もし全国一斉に、女人禁制の祭や行事を廃止するよう中央官庁から御触れのようなものが来たら、民主主義の観点から大変、恐ろしいことです。性の違いを強調した女人禁制の伝統行事を続けていくのかどうか、決めるのは、住民一人ひとりだと思いますから。
 首長は住民から直接選ばれている政治家なのだから、公共空間における女性の排除について、もっと発言してもよいと思います。しかし、男性の知事は相撲の土俵の問題に気づかなかったように、女性の政治家が選ばれて初めて慣習の弊害を問題提起できることがあります。奈良県には、いまだに「女性議員ゼロ」の市町村議会があります。一人でも多くの女性議員が増えることを期待し、女人禁制の問題を語り合いたいです。


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